虐待は見えません…

 か。
 それはそうだな。
 子供というのは子供の心の世界に生きている。自分は長くそれを覚えているような気でいたが、実際のところは忘れてしまった。青春もそうだ。
 忘れるというのはよいことでもあるのだが、本当に忘れたのかというと、そこは難しい。
 私は日本を深く愛するようになったが、日本人を深く信頼しているかというと、それはできない。私は日本人というのはここまで醜いものなのかと実感することが幼児期・少年期の原点だった(逆にいうと私は武家であり町人的な世界を拒絶していただけかもしれない、と、こんなことを書けば失笑だが、武家の気概との家風というのはあるものだ)。生きてみて、そうではない人の世というものはあるのだろうかと、それなりにもがき、模索したが、無駄だった。
 友情というのは、若いときには、そうした反動のように求めたものだったが、今は、あまりそうでもない。というあたりに、自分が歳をとったのだと思う。
 友情と呼ばなくてもいいのかもしれない。面識もない人間の精神を信じるありかたを少しずつ学ぶ。もちろん、0か100かという信じ方はありえない。自分がそういう人間ですらないからだ。
 話がそれた。
 虐待というのは、どこにもある。生き延びた人間がそれによって傷を受け、それが強い精神となるかだけが結果的な問題で、強い精神は、強く連帯できると、少しずつ信じるようになる。