私の考えるオヤジの脳内女フォルダは「母・妻」「娘」「飲み屋のねーちゃん」。

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 一方的に甘えられてお世話をしてもらえる「母・妻」、庇護すると同時に、無条件に尊敬の視線を送ってくれる「娘」、性的、及び蔑み対象としての「飲み屋のねーちゃん」会社で働く女性社員は、知人でも仕事上の仲間でもなく、自動的に三つのどれかに振り分けられてます。

 ええと、私が、気取るわけでもないのだが、代表的なオヤジでもないのだが、これは、そうでもないのですよ。別の言い方をすると、そう見られることに耐えているか、あるいは、お金の関係なんて淡いものだと自己慰撫しているのですよ。
 最初にあえてフォルダ分けをすると、「愛する女」「社会的に対応する女」「自分の娘」ですね。
 で、
 「愛する女」というのは、実に微妙なんですが、ま、そういうフォルダはある、と。妻であり、過去の思い出であり、あるいは…という幻想の領域でもあったりしますが、そういうフォルダが、オヤジの心にどかんとある。絶対。
 「社会的に対応する女」は各種です。対応のインタフェースによって変わるだけ。ビジネスならビジネス。水商売なら水商売。電車のなかで乗り合わせたならそういう他人と、それぞれ。基本的に、女というのは関わるのが面倒なものなので、そういう対応のインタフェースのプロトコルに合わせるわけです。飲み屋のおねーちゃんだのにいわゆるオヤジ度全開になるのは、所詮、金(かね)と割り切れるからですね。
 で、このあたりは、一般的なオヤジの本心かわからないが、「母」というのは、社会的な存在です。つまりですね、家というのは、社会なんですよ。母親との対応というのは、「家」という社会のインタフェースでありプロトコルなんです。このあたりの苦みがオヤジたるところ。
 そして「自分の娘」ここが、「愛する女」よりさらに微妙。というのは、たいていのオヤジに現実には自分の娘なんかいないわけです。なのに、オヤジになるってことは、俺がこの女の親かもしれないという奇妙な遠い問いかけがあり、そして、なにかそれに備えるような心の構えができる。実は、このあたりが、若い娘との関係で混乱を来しやすいところで、たいていのオヤジは、俺なんかみすぼらしいしなと知っているが、どこかで若い女を自分の娘のように見て、守ろうと無意識には思っていますよ。
 新聞の社会面とか、社会の現実表層面では、オヤジっていうのが、実にショーもなく出現しているけど、オヤジの本質において、女というのは、そういうもの。
 別の言い方をすれば、そういうオヤジに達してないのは、若造です。
 参考⇒アイ’ムホーム 遙かなる家路|NHKドラマ | 連続ドラマ