松岡正剛 『虚空遍歴』上下

 書籍は⇒「虚空遍歴 (上巻)」「虚空遍歴 (下巻)」これ。
 たまたま松岡正剛のこれを眼にしてエントリを再読したのだが、これだけか。
 「虚空遍歴」は、恥もなく言うが、私が人生の5冊には入る、という思い入れがある。ま、その思い入れからケチつけられるのもなんだろうが。

山本周五郎はこの作品を書くために四〇年を費やしたという。最初は『青べか物語』の一節に入れる予定だった。それがやがて「私のフォスター伝」というメモに変わっていき、さらにフォスターが時と所を越えて江戸の端唄師にワープした。こういうことができるのが周五郎の文学なのである。

 松岡のすごく悪い面がよく出てしまっている。つまり、そんなことはどうでもいいことで知が構成されるということ。ではなにか? 山本自身がフォスターに擬して、失敗した芸術家を描きたいと言明している。だから、フォスターであり、という点が重要なのだ。失敗した芸術家、あるいは失敗した天才とはなにか、と命題にすれば稚拙だ。が、大衆と歴史の関係で深い意味を持つ。
 「虚空遍歴」に泣き、中島らもの死に泣く。松岡さん、「虚空遍歴」を語るなら、失敗した芸術家の生き様の美しさというもおに、まず、涙するところから始めなくては。あるいは、その涙を拭ったところから始めなくては。
 中藤冲也は酒に飲まれていく。そして才能すらすり切らしていく。サムソンの用に最期の力を賜ることもない。所詮過去の端唄師と死ぬだけ。酒を断つことはできない。
 だが、酒を断って鬼になった野中やブッシュのような人もまた、虚空遍歴の世界から遠くはない。そうした鬼の力がなにをもたらすはわからない。酒に潰れていく良さというももすらある。