Finalventさんが、岸田秀のどういう所を評価したのか教えていただけますか?

 ラフに書くのであまり細かい点の正否はご容赦のこと。
 また、現在、岸田秀にはほとんどといってほど関心を持っていない。かつて関心を持って読んでいたのは事実だし、その想いを以下に書くものの、現在失っている関心からすると、基本的にどうでもいいことではある。
 で、かつて岸田についてどの点で評価したか、だが、私は、ユンク心理学などにも傾倒したが、基本的にフロイディアンの立場になっていた。今でも、その立場だ。米国では、伝統的に、ライヒという例外はあるしフロイト派も強固なのだが、メニンガーやアドラー、そして別分野ではあるがロジャーズ、パールズなど多様などちらかといえば社会学的な志向の取り組みが評価されつつある。というのも、単純に19世紀の色やオカルト的な色を持つフロイト理論は米国の合理性からは受け入れがたい。このあたりは、哲学におけるウイリアム・ジェームズとも比較が成り立つだろう。
 私は、しかし、フロイトの無意識概念は、生物学的な発生との対比にあるだろうと考えていた。この視点は、自分でもまさに思春期・青年期またさらにそれ以前の記憶を意外に保持していた自分の内省から得たものである。そのせいもあり、今日では忘れ去れていると思うが、牧康夫の、彼の自殺後にまとめられた「フロイトの方法」にある共感をもった。一般向けの口調にされているためかえって牧の思想とその志向がわかりづらい。この側面は彼がヨガになにを求め、そしてなぜ自殺したのかということをこの思想に関連つけるとある全貌が見えてくるだろうと思うが、この問題意識はその後だれにも嗣がれていないようだ。
 私はその後、三木成夫にも傾倒し、そこでふたたびフロイト学の発生側面を解剖学的に結合できるのではないかと夢想したのが、この問題は不思議なことにその10年以上も後になって吉本隆明が継承してしまった。吉本の思想の流れからは自然とも思えるのだが、これにはひどく驚いたことがある。ただ、私はだからこそ吉本とは一線をひきたいとは思う。
 もう一人、重要な思想家というか科学者がいる。アレックス・コンフォートだ。彼については、いつか簡単にまとめたいと思うのだが、彼は70年代にすでにネオテニーの無意識的な反映に着目していた。
 と、岸田と関係ない話のようだが、そういう自分の枠組みがある程度できているところで、岸田の理論に触れたので、
 1 フロイトの正統から発生的な志向をもっている
 2 ネオテニーを中心に据えている
 この2点に注目した。
 端的にいえば、岸田秀を評価したのは、これだけで、しかも、このフレームワークからどのような理論が形成されるかという点では、まさに学位論文レベルでしかないとも思った。
 彼は世間的には唯幻論とか彼流の共同幻想論を展開しているが、現時点で読み直しても、これらはただの洒落というだけで、おもしろいこと言うなわっはっはという以上ではない。その意味では、もうつまらない、過ぎ去ったお話だ。これが大衆受けするのは、中谷彰の受けと同じようなものではないかと思う。
 別の言い方をすれば、いわゆる岸田が登場してからの作品でとくに評価すべきものはなにもないと思う。それでもおもしろいなと思うは、自分も50歳が見えだしてくるわけで、性を当然抱えた男の内面がどう歴史と老化に向かうかという点で、一人の男の内面告白だろう。この点で言えば、別に彼ではなくてもいい。
 話を評価点に戻すと、フロイト理論の発生学的発展とそのネオテニーの問題は、牧、岸田、コンフォート、三木、吉本といった分散された着想のなからもういちど再編成されていいようには思う。
 ただ、フロイト理論は、実はラカンに顕著なのだが臨床に始まり臨床に終わる(そのあたりが日本では抜本的に理解されていないようだが)という性格を持つため、その発展には意図的な逸脱が必要になる。
 ふと思ったのだが、アフォーダンス理論的な知覚構造は生存戦略が込められているわけで、性意識のより広義なアフォーダンスが諸生物に埋め込まれているはずだ。そのあたりの類型からなにか見えてくるのではないかとも思う。ただ、ネオテニーこそ人間を特徴づけるので、そうした比較のアプローチはダメかもしれない。