松岡正剛の千夜千冊『伝習録』王陽明
1001冊が終わっていたのか。
それにしても、この伝習録の話はひどいな。ただのうわっつらの知識の羅列という以外なんだろ。
たとえば、「義理」についてまるでわかっていない。それがわからなくて、宋学に言及できるのか。
…できるのだ。それがレトリックというものだ。というわけで、松岡正剛については以前も語ったのでこれ以上言及しない。
でも、以下、晒し。
この「義」についてもいろいろ議論があるところで、いったい「義」とはどういうものか、それこそ日本の儒学も、また西鶴や近松もそこを問い、そこを表現したのだが、それはともかくとして、朱子にあっては、この社会道徳の二極性にも断固たる「合理」を与えて説明しようとしたのだった。
これは朱子の徹底した合理主義による。日本の近世の表現者には、この合理主義はそぐわなかったのだろう。
朱子学のロジックを一言でいえば、一人一人が真理を正しく知るべきであるということを、正しく知るには居敬を正しくしなければならないことにつなげたことにある。そこに一人一人が聖人になりうる可能性があるという希望をおいた。
居敬とは、心身を収斂して「本然の性」を日々まっとうに守ることをいう。
うーん、ばかたれ、とか言いそうになるな。がまんするか。
それにしても、小林秀雄、山本七平、吉川幸次郎を読んでおけば、ここまで恥ずかしいことにはならないのではないか。っていうか、吉川幸次郎はリストにはなかったか。
それにしてもそれにしても、なんか基本が分かってないで、上っ面の量を重ねていく空しい砂の城のようなブックリストだったな。