哲学

 中島が米国のカントの学会に出た感想として、かなわないってなことを言っていた。あの感覚がない日本の学者、死んでくれ。
 カントに限らず、あいつらの学問レベルっていうか、基礎レベルのすごさがわかんないとすれば、どうしようもない。あいつら、そのまま会話をラテン語に切り替えるくらい屁でもない。ラテン語をそこまでやっていて初めて哲学ができる。っていうか、哲学の学だがな。
 厳密に言えば、哲学なんていうのは、大森が言うように、その条件は病気であればいい。もう一ついえば、これも大森が言っていたが、正しく軽蔑すること。愚劣なものを軽蔑するセンスだ。なにが愚劣かって、哲学をファッショナブルに論じるバカどもだよ。
 哲学というのはやるもんじゃない。病気だ。この病気にかかってくたばるという人間の生き様なのであって、それが人生の第一義に来る。っていうか、悲惨な運命なのだ。中島、きみは本物だよ。
 ヴィトゲンシュタインだって哲学なんぞやりたいわけではなかった。ベルクソンもどっちかといえば、そうだ。しかたねーなということで哲学した、というだけだ。あえて言えば、マルクスもそうだし、フッサールもそうだ。
 フッサールはこうおどけたことがある。鉛筆をきれいに削ろうとして、無くなってしまった。いや、それや彼への揶揄かもしれない。
 哲学には、病気ともう一つ道がある。
 この世界の根幹をただそうすること。
 この世界の根幹を射止めること。
 この愚劣で変化がなく、「私」に死だけを命じるこの世界の根幹の礎石を打ち砕くことだ。
 だから、それは、戦士だ。
 戦士でなければ、この哲学は無用だ。