松岡正剛の千夜千冊『本居宣長』小林秀雄

 こうして小林の『本居宣長』は、縮めていえば、宣長の「古道の思想」をあえて感覚的にのみ徘徊できるように、宣長の源氏論にひそむ「もののあはれ」をところどころ突っ込むことによって、一個の宣長像を六曲数双屏風の絵のように一扇一扇に描いたのだ。

 馬鹿でなけりゃ、こんな文章は書けねーよ。どこが馬鹿か指摘できないほど馬鹿だ。が、うんこ塗りたいわけじゃないので、言うが、古道は思想だが感覚で受容するものではない。それを言葉のなかに息づかせ感受することだ。だから、小林はくどいほど宣長の息づかいを伝えようとした。そしてその息づかいの奥にあるものに気が付かない松岡ってやつは、およそ、女で泣く人生の意味もわかっちゃいねぇよ。端的に、あえてこちとらも馬鹿っぽくいうと、『本居宣長』は長谷川泰子への鎮魂歌だよ。おっと、そう言っちまったら、まるで泰子に未練が残っていたか、みてーだが、そーじゃない。全然、そーじゃない。女で生き死にまで翻弄されるっていう人生の真っ当なありかただ。そして、それが必然的にはらむ「罪」の問題だ。「罪」? そのとおり、それ以外になぜ、白鳥を晩年まで思い続けたのか? その白鳥は死期になんと言ったか?

 宣長には、情というものについて、「はかなく児女子のやうなるもの」が本来のものだという確信があった。この確信が画期的だった。『排蘆小船』や『石上私淑言』での独得の言いっぷりをさす。
 たとえば、「ただしくきつとしたるもの」は人情の本質をあらわさないというのだ。キッと虚勢をはるのは本質的ではないという。それは世間の風に倣ったもので、宣長には無縁だというのだ。そうではなく、「しごくまつすぐに、はかなく、つたなく、しどけなきもの」こそが人間の本来の本質だというのである。
 これは驚くべき思想である。「はかなく、つたなく、しどけない」なんて、まさにフラジリティの根本に迫っている。
 残念ながら、小林秀雄はついにこのことに気がつかないで終わっている。言葉を弄ぶことをできるだけ避けて、一歩一歩の思索を自問自答することは叶えているが、そこにフラジャイルな本質を嗅ぎわけはしなかった。

 なにがフラジリティだか。松岡って馬鹿野郎は「考えるヒント2」を読んでないこと公にして恥じるそぶりもない、っていうか、読んでねぇな。
 およそ、小林秀雄を読むっていうことは、その主要著作を全部読むことだよ。小林の個々の作品なんてものはない。
 それがわからない読書なんて週刊誌読むのと変わらねー。