心の傷と癒やし

 まあ、話は宗教っぽいトーンになる。あるいは精神分析学というか。
 昨日、自分の心の奥の傷のことをちょっと書いた。意外だったが、ブコメがついていて、だれだったか(確かめればわかることだけどあえて確かめないけど)、「毒吐き」と評していた。まあ、そう思われてもしかたないだろうな。
 要点はというか、「頭ではわかる。救済はいつかやってくるものではなく、今ここにある。でも、今ここに絶叫したくなる苦しみも悲しみもある。」ということで、悲しさやつらさも感じる。それは素直に感じるというか、素直に感じられる。その痛みよりも、素直にそれを受け入れられる部分に、今、実は救済があるという含みを感じてもいる。
 救済が完了の相で今を覆っているというか。奇妙なことを書いているようだけど。
 キリスト教的なことを言えば、キリストは世に勝った(完了の相)としてある。でも、この世の悲惨はいかばかりも減じてないように見える。どこにキリストの勝利があるというか。そして、しばしば信仰は(聖書にそう書いてあるせいもあるんだけど)、来たるべきものの確信として表現される。
 ただ、これは、いつか必ず来るという表現にもなるんだけど、同時にすでに完了の相として今あるという意味でもある。
 なんというのか、宇宙の全ての時間が積分されて、それは救済をもってすでに終わっているというか。
 その意味を強調していうなら、信仰というのは確信や信じるということではなく、その完了の相のなかで世界を見るということだし、悲しみや痛みを、救済の相のなかで見るということでもある。
 ま、でも、ご安心あれ。そんなことを信じなさいとは言わないから。