354 : Lesson
We stand together, Christ and I, in peace
And certainty of purpose. And in Him
Is His Creator, as He is in me.
【意訳】
私はキリストともに安らぎつつ
確実な目標を見つめ、ここにいます
キリストのなかにその創造主がいますし、
私のなかにキリストがいます。
心の傷と癒やし
まあ、話は宗教っぽいトーンになる。あるいは精神分析学というか。
昨日、自分の心の奥の傷のことをちょっと書いた。意外だったが、ブコメがついていて、だれだったか(確かめればわかることだけどあえて確かめないけど)、「毒吐き」と評していた。まあ、そう思われてもしかたないだろうな。
要点はというか、「頭ではわかる。救済はいつかやってくるものではなく、今ここにある。でも、今ここに絶叫したくなる苦しみも悲しみもある。」ということで、悲しさやつらさも感じる。それは素直に感じるというか、素直に感じられる。その痛みよりも、素直にそれを受け入れられる部分に、今、実は救済があるという含みを感じてもいる。
救済が完了の相で今を覆っているというか。奇妙なことを書いているようだけど。
キリスト教的なことを言えば、キリストは世に勝った(完了の相)としてある。でも、この世の悲惨はいかばかりも減じてないように見える。どこにキリストの勝利があるというか。そして、しばしば信仰は(聖書にそう書いてあるせいもあるんだけど)、来たるべきものの確信として表現される。
ただ、これは、いつか必ず来るという表現にもなるんだけど、同時にすでに完了の相として今あるという意味でもある。
なんというのか、宇宙の全ての時間が積分されて、それは救済をもってすでに終わっているというか。
その意味を強調していうなら、信仰というのは確信や信じるということではなく、その完了の相のなかで世界を見るということだし、悲しみや痛みを、救済の相のなかで見るということでもある。
ま、でも、ご安心あれ。そんなことを信じなさいとは言わないから。