終風日報編集後記

 オスロのテロ事件だがその後死者数は92人となった。向き合った一人の人間にそれほどの人間が殺せるものだろうか。もちろん死者数を疑っているのではない。爆弾でもなければ殺される側も必死に逃げるだろう。その光景のリアリティへの非現実感である。▼オウム真理教事件が起きたとき、思想家吉本隆明はその無差別性に着目した。無差別の大量殺人というのは思想的な事件なのだと。そしてその背景に潜む善悪の根源的な問題を思索したが、人の理解は得られているふうはなかった。▼オスロのテロでは無差別の殺人ではない。極右と報じられてもいるが政治的な文脈も読めないわけではない。ただ、そこで意味を了解し、銃の規制や社会の問題に帰着させることがこの問題を考えることではないだろう。

毎日新聞社説 社説:オスロ連続テロ 「冷血の惨劇」許さない - 毎日jp(毎日新聞)

 だが、反発の対象が何であれ「異議申し立て」の手段として市民を無差別に殺すことは許されない。9・11以降、そうした邪悪な行為が広がりを見せているのは憂慮すべきことだ。

 これも拙速。
 ⇒アリゾナ州乱射事件はどのような他山の石と見るかが問われる: 極東ブログ
 日本ではあまり報道されていないが、これは精神疾患者という線がその後も濃くなった。

朝日新聞社説 ノルウェー―テロの暴挙に屈しない : asahi.com(朝日新聞社):社説

 若者の自由な討論を流血によって砕き、政府の中枢機能を暴力で壊そうとした。許し難い暴挙である。

 成熟した民主主義国でおきたおぞましい政治テロだ。同じ時代に住む私たちは、現代社会の街なか深くで暴発の芽が育たないよう、ひずみを知り、英知を集めなければならない。

 か、どうか現時点ではよくわからない。
 「現代社会の街なか深くで暴発の芽が育たないよう」というのが「ひずみ」を生み出していくかもしれない。