cakesの書評のこととか

 今日、cakesの連載に、五木寛之の『風に吹かれて』の書評が出るはず。あるいは明日かな。
 結局、前半と後半に分けることになった。
 ⇒新しい「古典」を読む|finalvent|cakes(ケイクス)
 今回のテーマは、前回もそれに近かったが、自分で選んだ。このテーマの選び方が難しいなと思う。
 椎名誠のときは、編集側から、「一度、椎名で」という感触があり、編集側では、作家としての椎名の小説が念頭にあったのではないか。初期三部作。で、私の場合は、結局、『さらば国分寺書店のオババ』とした。自分の思い入れがいろいろあり、そこから見える椎名の本質みたいなところを書きたいと思った。この書籍は、ある年代はほとんど読んでいるが、長く、意図的に絶版に置かれたせいか、若い世代は読んでいない。若いといっても、40代も入ることがある。むしろ、椎名にこの著作があることが、え?という人すらいる。
 その意味で、その「え?」の時代的な意味合いから、椎名という作家の秘密を探るように書けば、読み手に伝わる部分が出てくる。
 今回の五木寛之だが、これは私からの提案で、たぶん、編集側では、五木の現代的な意味は、よくわかっていないということではないが、おそらく1990年代以降の五木が見えるのだろうと思う。というか、もうすこし広げて、現在の40代ですら、五木の小説を読んでいるかというと、少ないようにも思える。実際のところ、五木寛之の文学者としての最盛期は1980年代で、それ以降は自身の思惑もあって終わっている。
 椎名の回と同様に、その1980年代という時代のなかで五木を見るかというアプローチもあるが、そこは現代の読者にはうまく繋がってこない。
 それどころか、五木の本質は1970年代にある。さらにいえば、1960年代にあり、その感触がわかる最後の世代が私の世代(今年55歳だよ)になる。この部分が団塊世代に読まれたかというと、私の感触では読まれていない。五木の1960年代的な本質は、彼の同年代とその上の世代に向けられているので、つまり、その読者層がすでに80歳ということになってしまった。
 ここをなんとしても掘り起こしたい、みたいな、なんともいえない情熱みたいなものが自分にはあって、そこの思いがどうしても、五木寛之を描くときの核になる。
 で、書いたら、自滅してしまった。笑い、という感じだ。
 それこそ、もったいのつけかたが好きではないとか言われそうな話になった。というか、もったいつけたわけではないが、五木の核心部分が痛烈な痛みに感じられて、これは書評書いている側で耐えられない思いになってきたのだった。
 で、リライト。
 文章も刈り込み、構図をすっきりさせればいいのだろうし、そうすれば、わかりやすくなるはずで、まあ、でも、つまらないものになってしまうというか、そこをつまらないと思うかどうかが感性が問われるところ。しかし、伝えられないものを書いても意味はないのだし。
 どうだったか。意外な感じはあった。
 編集側の提案で、いや元の原稿の構図で行きましょう的な再提案。
 率直に言って、こういうところがcakesのすごいところだなと思った。cakseさんも、基本的に、広いマスを展望していかなくてはならないので、私の一連の書評みたいなものはお荷物になりかねないなあ、すまないなと思うのだが、それでもきちんとツボを打ってくる。
 で、いろいろというほどでもないが、再構成してリライト。オリジナルのなんともいえないパッションを残しつつ構図を整理した。削ったのは、彼自身の恋愛の秘密だ。ここはどうしてもわからない部分でもあるし、そこまで切り込むものかというためらいもあって、最初の原稿が歪んだところだ。
 cakesの書評としては、けっこうこちらの無理をしいて申し訳なかったが、まとまった。
 ただ、五木寛之の『風に吹かれて』の核心を狙いすぎて、その全体像は拾えなかった。全体像を拾うという書き方はあるかと思った。気がかりなのは、中尾ミエや、1960年代のショービズの娘たちだ。五木が傾倒していたのは、現代のAKB48の華やかさと繋がるものがある。そこで、五木は、日本の女というものを見ている。この視点は、自分に力があれば、切り込みたかった。
 あと、五木の、恋愛問題にも関わるが、性の問題がある。五木は結果的に、『青春の門』という大河小説を書いたので、そこから丹念に読み解けば、うまく繋がる。というか、そこは『青春の門』論を書かないとしかたない。
 今回、書評を書くにあたって、自分ではへとへとになるくらい読んだ。読んでまだたりない。1980年代の、乱造にも見える小説の再読までは手が回らない。
 ただ、五木は意外なほど巨人だぞという畏怖する思いは強くなった。美男子で美声でかっこつけすぎだよとかいつもどこかで思っていたし、今も思ってないわけではないが、そういうものでもないなあ。ああ、あとお子さんのない人生の意味も彼にはありそうだ。
 cakesの書評をきっかけに、1970、1980、1990年年代に積み残した宿題を解き直している感覚もある。けっこうきつい。
 愚痴めくと、現代文学評論が、弱いぞ、なんでこんな脆弱なんだ。批評家たち、古くさい純文学の枠にこもってきちんと大衆文学の神髄を読んでないぞ、ごらぁ感はある。
 このあたりは、1980年代に、吉本隆明がマスイメージ論でサブカルチャー論として提出した部分に重なるし、その後のニューアカを引きずったサブカルチャー論壇は、はてなーずなんかにも影響しているが、いわゆるエンタテイメントではない、日本の民衆史としての文学論が、どうもすかすかじゃないかという思いはある。おそらく、今80代の人には暗黙に理解されているのだろうが、70代の団塊世代は意外に古い枠組みで文化を見ているのでそこが抜けてしまうのかもしれない。
 まあ、でも、気負っても自分できることは限られているし、そもそも、気負うとなんも伝わらないのだなというのがひしひしとする。
 それが、老化したということでもあるんだなと思う。自分のパッションでごりごり押して、他者をくだらないとか一刀両断できた40代がなつかしす。