晴れ

 明日は彼岸。寒さ暑さもの彼岸であり、たしかにもう春だなと思う。
 昨日のエントリで神が義がどうたらというのに、「そんなこと気づくの遅すぎねえか」というのがあった。まあ、そのまま読むとそうなんだろうなと苦笑した。もうちょっと意味合いが違うなという思いが残っていたからだ。
 不要な刺激になってあまりよい例ではないが、先日河村たかし名古屋市長が「南京虐殺」否定発言で物議をかもした。れいによって格好な餌を撒くなよというトホホ感があったがこの問題は史実の問題としてはすでに日本政府見解(参照)も出ているのでその意味(政治・外交)ではいまさらの問題にすることでもない。河村市長としては別の思惑もあったのかもしれないが、それならその問題が意識される枠組みは必要だっただろう。その認識がなければ稚拙すぎる(参照)。
 さて、仮にだが、河村市長が「南京虐殺」否定論者だったとする。それは許されることか。
 言論の自由からすれば、チョムスキーフィンケルスタインの「ホロコースト産業」(参照)を支持したように、各種の議論は自由主義国では許されるとも言えるかもしれない。また、その議論は特段、ホロコースト否定という史実の問題とは違うということもあるかもしれない。曖昧な領域に接するのは、フランスがトルコによるアルメニア虐殺の議論を法的にどう扱うといった現在の国際世界問題にも関連しているからだ(そしてこの問題は日本では対日本では問われるが世界の水準では問われにくい)。
 いずれにしても、そのような言論・思想の問題は、ある国家の国民が市民として疎外されたときに出てくる問題であって、原理的に私的領域に国家が介入できないように私的幻想に立ち入るものではないし、広義に言えば、そもそも私的幻想領域と市民規則の線引きの問題であると言える。
 話がここで当初に戻るのだが、一例ではあるが、私たち日本市民は日本の侵略戦争にどう向き合うかという問題だと、これは、よって、市民規則の水準の問題になる。では、あなたは、例えば、あくまで例えばということだが、日本の侵略戦争について良心的な呵責感を持つべきか?
 この問いかけの水準が難しいということになる。日本人として残虐なアジア侵略について良心的な呵責感を持つべきかという問いの水準を意識するなら、「日本人として」という時点で、「私」はある国家の国民が市民として疎外されているのだから、その市民規則として、呵責感の表明が当為となる。
 ここで奇妙な問題、あるいは錯綜しがちな問題になるのは、呵責感とはそもそも私的幻想領域の範疇ではないだろうかということだ。
 おそらくそうだろう。個人的に、例えば、あくまで例えばということだが、そもそも日本の侵略戦争に個人的に関与してない戦後生まれの、具体的な日本人が、そうした呵責感を持つべきだろうか、被侵略国家の現存の個別の国民に対して。
 おそらく、個人の私的幻想領域として、そうした呵責感の成否は任意であろうと思う。
 その意味では、河村市長の場合は、市民なり公人として疎外された問題であり、そうしたことが同様に課されるのは、日本人として疎外された部分であり、そのことは同時に、個々人にとっては、心情としての呵責感には原則としては還元されないことを意味する。
 正義なり義は、私たちの社会にあっては、市民として疎外された部分にしか影響を及ぼすことができない。その先は、任意の問題である。(宗教の問題であろう)
 だが、正義なり義は、その任意の隣接において実際には問われることが多い。するとどうなるのか。
 それらが隣接において問われるなら、人は心情において「日本国民であれ」と強いる、一種のナショナリズムに転換する。その呵責感を持つことがナショナリティの代替として前提にされてしまうからだ(参照)。
 広義に言えば、私的幻想領域が確保されないなら、正義や義、倫理というものは、個人の内面を拘束するファシズムにやすやすと転換する。
 そこでは、呵責感つまり罪責への告解を通して、正義が審級化され、審級の特権を「司祭」らが保持することで権力のヒエラルキーが発生する。そしてその権力は人の自由を最後には奪っていく。
 この構図は、おそらくすべての義にあてはまり、「神」にもあてはまる。
 そしてこれが心底が恐ろしいことには、日本人は、私的幻想領域が市民として確保されているのではなく、曖昧なかたちで日本人の宗教性、日本教とも言えるものに浸潤されているのが実像だから。そのなかで、義なり神なりが市民の水準の隣接で問われるなら、それは転倒されて見えようが国家ファシズムに到達しやすい。
 昨日のそれをここで引用しておく。

 自己の義のための道具としている神は偽物である。正義を掲げている人は神に仕えるように見えながら、実は神を自己の義のための道具にしているにすぎない。正義を掲げている人もそれがただ他者を罰する機能をしているのであれば、それは自己の尊大化であり神たらんとする欲望に駆られているだけだ。それが自己処罰のように謙遜に見せかけても同じように義を求めているなら誤った道である。