日経 春秋(3/18)

 直訳だと「私を暑くする」、普通は「私を喜ばせる」という意味で使われる言い回しが、フランス語にあるそうだ。ところが、西アフリカの旧フランス植民地に行くと、同じ言葉なのに「怒らせる」の意になる。最近そんな話を聞いた。

 知らないな。Heat me.みたいもん?

日経新聞社説 政府との一体感演出した日銀追加緩和 : NIKKEI NET(日経ネット)

 政策金利である無担保コール翌日物金利が0.1%とすでに低水準なので、金融政策のかじ取りは確かに難しい。そんななか、日銀は3カ月物など期間が長い金利を低めに誘導することで、金融緩和が長く続くとの期待感を市場参加者に抱かせようとしている。
 いわゆる金融緩和の「時間軸効果」であり、市場心理に働きかけることによって、国債など債券相場を安定させ、外国為替市場での円高圧力を抑えるのを狙っている。
 その一方で、国債の買い取りをさらに増やすことに対して、日銀は引き続き慎重だ。「中央銀行による財政赤字の穴埋めと受け取られ、かえって金融市場の信頼を揺るがせる」と見ているためだ。
 そうした日銀の懸念には一理あるにせよ、世界的にソブリン・リスク(政府債務の信認危機)が募るなか、危機的状況にある日本の財政に対して市場の懸念がくすぶっているのは間違いない。

 それがどのくらいなんだろうか。歴史を振り返って藤巻の予言とかにならなければいいのだが。

読売新聞社説 名誉棄損事件 ネットの情報も責任は重い : 社説・コラム : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

 この事件では、ネット上の表現が他人の名誉を傷つけたかどうかを判断する際、新聞などマスコミによる言論と同様の基準を適用すべきなのかが焦点となった。
 過去の最高裁判例は、大勢の人が関心を持つ問題について、社会の利益を図る目的で書いたのであれば、仮に内容が誤っていても相当な理由がある場合、名誉棄損罪にあたらない、というものだ。
 東京地裁は、ネット上では反論が容易なうえ、個人が発信した情報の信頼性は一般的に低いと受け止められているとして、無罪にした。個人でも可能な事実確認はしたという認定だった。
 これに対し、東京高裁は、ネット上の全情報を把握し、反論するのは不可能なことや、個人がネット上で発信した情報だから信頼性が低いとは限らないことなどを挙げ、逆転有罪にした。
 最高裁も高裁判決を支持し、不特定多数の利用者が瞬時に閲覧可能で、被害が深刻になりうることなど、ネット特有の事情も指摘、間違えたことに相当な理由はなかった、と結論づけた。
 妥当な判断と言えよう。

 メモ。まあ、そういうことかな。

朝日新聞社説 追加金融緩和―政府が民需を促す番だ : asahi.com(朝日新聞社)

 日銀もだめだわこの政府という要所要所でちょっとだけよ(昭和なつかし言葉)と小出しするところが笑える。

 デフレ対策に手詰まり感のある鳩山政権は、日銀の対応を強く促してきた。菅直人財務相は「年内に物価上昇率をプラスに」「物価上昇率は1%が望ましい」と繰り返す。

 菅さんもわかってないんだよね。1%は下駄なんだが。

 政府と日銀がデフレ克服に向けて緊密に連携するのは当然のことだ。だが政府が日銀に漫然と金融緩和を迫るだけでは経済再生への最終回答にはならないことは、いうまでもない。むしろ、日銀にもたれかかり、対策の比重を必要以上に重く金融政策に置けば、将来に禍根を残しかねない。
 日銀の政策が発しているメッセージは、「設備投資などの需要さえあれば資金はいくらでも付ける」ということであり、今度は政府側が民間の投資や消費といった需要を奮い立たせるような政策の立案に知恵を絞らなければならないだろう。

 朝日新聞も面白いこと言うなと思うけど、そういう考えもあるかもしれない。

朝日新聞社説 asahi.com(朝日新聞社)

 で? という感じなのでスルーしてよいかなとは思うのだが。

 事情を聴かれた人たちの多くには、犯罪の意識がなかったという。実名であれ匿名であれ、情報は発信者の責任であることに気づかなかったわけだ。

 ネットに本当の意味で匿名性なんてものはないよ。あるいは、実名とアソシエイトされても、で?みたいな人は匿名と変わらない。そういう意味でいえば、実名とアソシエイトされても発言できない人の怨嗟のようなものが、ネットで匿名のように現れるということ。つまり、衆を頼んでいるだけにすぎない。つまり、最初から匿名みたいなもの。逆に、ブログとかで一貫して書いていけば、つまり衆を頼んで霞んでしまわなければ、一人の個人というものが現れてくるよ。

薄曇り

 春ということなのかこのところやや眠りが深い。そしてビビッドに夢も見ているようだ。が、まあさして想起もしないでいる。そういえば、先日、昼過ぎにふとうたた寝をしてしまって目覚め、はっとここはどこか感があった。昔はそういうのがよくあったなと思い出す。人生は夢だという人がいる。葉隠の山本常朝もそんなことを言っていた。というか、葉隠とは老人の繰り言である。この老人めがと享年を確認するに、満で61であったか。そう老人というものでもないな。というか、あれを書き出したのは俺ほどの年であったか。葉隠はよく武士道で問われる。新渡戸稲造の変な本よりはましかとも思えるし、あれが武士道なのだと言ってもいいだろうとは思う。それでも変な本だとは思う。変な思想だと言ってもいいだろう。江戸時代の思想家は、変な人が多い。それほど鎖国によるガラパゴス化というものでもないだろう。戦国の世のあとを生きた人たちの思想というのは、独自なものにならざるを得ないのかもしれない。あるいは野にある知識人とはそもそも変な人なのかもしれない。

学歴とか学問とか

 まあ、学歴というのは、B.A.以上を言うのでしょう。
 中卒でも頭のいい人はいる。羽生さんも中卒。まあ、例外か。追記コメントでご指摘をいただきました。高卒に訂正。
 学歴とか学校の成績がいい、というのと、学問をやった人というのは、違う。どこが違うのかというと、学問を構成する特定の概念に対する感覚が違う。それと、学の本質をつかもうとするある独自の直感の働かせ方が違う。
 ものごとの正否を○×で考えている人はまあ頭悪いよと言ってもよいかとは思う。ただ、こういう人に、なぜ×でいいのかということをうまく説得することは難しい。×は×でしょくらいなところで拘泥してしまうから。
 ネットとか見ていると、ああ頭がいい人だな、でも学問はしてないなというのを感じることがある。逆に学問はしているけど、頭悪ぃなと感じることもまれにある。ただ、その場合、これだけ誠実な人格なら頭悪くもなるよねという一種の畏敬感もある。