アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート著「叛逆―マルチチュードの民主主義宣言 (NHKブックス No.1203)」読んだ。
言いたいことはわからないではない。全体はわからん。基本的にヘーゲル的な枠組みと数学モデル的な枠組み以外、自分はおよそ理解として受け付けないのかもしれない。
叛逆―マルチチュードの民主主義宣言 (NHKブックス No.1203) |
基本、憲法制定権は国家に集約され、その上位に、帝国を想定していくというのがネグリらの考え方なのだろうと思うが、個別に批判されている現代国家の病理については、私などからすれば、十分にリバタリアニズムで足りると思うし、リバタリアンというのは日本ではなんか珍妙に誤解されているが、国家を否定する「公」とおしての普遍的な帝国を志向するので、結果的にマルチチュードの議論は包括されるように思える。
個別には、(1)借金を負わされた者、(2)メディアに繋ぎとめられた者、(3)セキュリティに縛りつけられた者、(4)代表制された者、という視点は、わからないではないというか、自分もそれなりに考えてきたからだ。(1)については、ようするにマネーの本質の問題に関わる、(2)については昨晩一連ツイートしたが、SNS的なメディアの問題が深刻、(3)は監視社会、(4)についてはちょっと難しい。ここを否定するのは議会の否定になるからだ。つまり、旧来の民主主義の否定になる。
なぜ議会が否定されるという契機が生じるかというと、私の考えでは、テクノロジーの問題である。テクノロジーはその知識のある集団に信託しないといけないのだが、その信託のチェック&バランスがうまくいかない。
ネグリらの考えのこうした個別の部分を統括する視点は何かがわかりづらい。いや、それをマルチチュードと呼ぶというだろうが、ごく簡単に言えば、権力とテクノロジーをどう制御するかについて、やはり具体的な対応は出て来ないようにしか読めないからだ。
その意味でというか、その必然として、ネグリらは「アラブの春」を称揚するが、その無残な結果は私が予想したとおりになっている。マルチチュードの可能性や潜在力といっても実際には、軍というものが国家から阻害されている状態では、革命は軍人を市民にひきおろす以外には方路はない。
この問題はもう一面では、ネグリらの「教育」観にも表れている。市民が専門家の知を越えることが楽観的に前提にされている。が、それこそ民主党の惨状とアベノミクスの差であり、実際のところ自民党でもリフレが理解されているわけではないが、その経済学テクノロジーにひょってマルチチュードの理念が実現されている。
あと、こうしたネグリたちの議論はその前提に個の自由が設定されていそうで、なんというのかセクシーではない。ぬっぺりとしたルサンチマンの原理を与えているだけで、性が人を突き動かす生命的な躍動感がまったく感じられない。しかし、むしろそれこそがヘーゲル理論の根底にあるものだし、吉本の対幻想もそこにある。
まあ、私がネグリを理解しているとは思えないので、対象としての全体としての批判はない。ただ、こうした理路は、基本リバタリアニズムとテクノロジーの議論において不要ろう。
とはいえ、共感する部分も多いので、この手の本も読んではいくだろう。「左翼の教会を焼き払え」とかまあ、それはそうだろうなとも思うし。