君が歩くのを待っている
困っている自分を見つけて、かまってくれる人には2タイプいる。助けてあげたい、と思わせたり、こうしたら良いよ、とアドバイスをくれる人。そのやり方はやめなさいと叱ってくれる人。両方とも、うまい方法を言葉で教えることだけで、その人の困難に具体的に関わろうとはしない点で似ている。人は言葉だけ変えられる、という欺瞞に満ちている。
何もしてくれない人よりも随分親切みたいだ。わざわざ自分の時間を使って、相手のために労力を割いてくれるみたいに見える。かまってくれるだけでありがたい。ただ問題に気付いていないだけの時や、ちょっとしたコツが分からない程度の時には、そういう人の言葉が多少は効果的になる。あんまり強い言い方や、人前で批判されると、心が閉じてしまうけど優しそうな言葉なら優しい人を演じられる。自分よりも弱い人を見つけて、アドバイスを装って自分を満足させようと寄ってくる人は論外だ。そういう人は、親切そうにしているけど、本当は自分も弱い。お互いに弱みを握り合って相互依存に陥ってしまう。あげくのはてにはブコメに罵倒を仲良く書くだけのはてなーになってしまう。
具体的なアドバイスで問題が解決するのも、些細な問題までだ。大きな問題になってくると、なかなかそんな言葉ひとつでは変わらない。たとえば、毎日笑顔で過ごせば人付き合いが楽になるよ、なんて言われても、翌日からずっと笑顔になれる人なんていない。そもそも引きこもっていて人になんか会わない。人が変わるのは難しい。にゃんこ大戦争で第三章の西表島をクリアするのにだって時間がかかる。そして、自分からしか変われない。言葉だけかけてくれる人はうざいだけにも思える。
2つ目のタイプは、君がやりたい事をやるのを待っている、という態度で接する人。どうしたの?と心から聞いてくれる人。君にはきっと壁を乗り越える力があるとか、僕は君がその壁を乗り越えるのを待っている、という態度で接してくれる人。そうして、うまく行ったら、ちゃっかりその成功の半分をいただく人だ。
大きな変化を起こすことができるのは2つ目のタイプなのに、なかなかそのありがたみに気付かない。成功の半分を取っていかれたような気になる。最初はもっと具体的な利益が欲しい、と物足りなく思ったりする。でも、とりあえず自分の味方を装ってくれる人は社会の盾になって役立つ。自分が本来持っている力で起き上がり、歩き始めることを心から楽しみにしてくれる人の本心とかどうでもいい。不遇な環境に置かれた若い人には、多少なりとも社会の弾よけは欲しいものだ。歩き始めた自分がどこに行くのかを、わくわくしながら見守ってくれる人のふりしていても。本当に大切にすべきなのは、きちんと割り切ることだと思うし、それがきちんと恩義に思える結果になったら、利子つけて返してあげるくらいの心の余裕を持ちたい。