acimのこと

 この日記的には、異物感のようではあるが、Acimのレッスンは這うように進めている。レッスンというよりはもう祈りの部分に入ってきているのだが、思うことはそれでもある。執拗に説かれている"the son of God"という感覚がわからないでもないと思うようになったし、「罪」ということについても、赦しとは"undo"ということで、"undo"というのは、最初から罪はなかった、傷つけられはしなかった、という認識なのだろう。この部分は、しかし素直に受け入れられるわけにもいかない。
 赦しの安堵感があれば、その深層にまた、吐き気を催すような嫌悪感が埋まっているのをなんども見た。ヘレン自身の地獄というのは、わからないでもないし、Acimというのはそうした精神の罠なのではないかとも思えることもあったが、こういうとなんだがKrishnamuriなんかもそうだし、トールなんかもそうなのかもしれないが、自分が語る・認識するというより、自己の神聖との対話という部分はあるのだろう。ヘレンのような女性なければ、そこまで神聖は明示的には語られなかったとも言えるのかもしれない。ま、そんな評論にしてもしかたないが。
 Acimをスピリチュアルと見る人もいるし、率直なところ、ワプニクがいなければカルトにもなりえただろう。ウルテキスト派は実際、カルトっぽい。
 まあ、そのあたりは、ワプニクの理性に信頼を見るという感じかな。
 こういう感じ⇒【質問】No.58 (org.#213) | J ACIM

あの内なる愛の現存へと向かうこと (このコースの象徴を使うなら、イエスまたは聖霊へと向かうこと) により、必ずあなたの自己譴責の取り消しのプロセスが始まります。

 ワプニクの啓示のなかで、イエス聖霊も象徴として無化されている。