晴れ
美しい空。昨日の風雨も懸念したことはなかった。
昨晩は久しぶりに眠れなかった。このまま未明にというのでもいいし、眠れないならそれはそれでと思いつつ、しかし、未明の明かりを見ることなく眠るには眠った。
思い当たる節はいくつかあったし、基本、表層的なことが関係しているとは思った。ただ、深い部分もある。一つには"The cloud of unknowing"がある。なるほどというかその深みのようなものと、そこにacimと似た響きを感じて心に突き刺さっていた。cloudはacimとは異なり、sinはある意味強調されているが、その強調のありかたは、acimのerrorに近い。また、cloudにはまたしても道元の響きがある。もともと禅に近いとして読まれてきてはいたのだった。まだ、読み切ってはいない。
輪廻とカルマということを考えた。オカルト的な意味合いではないが、それに近いのかもしれない。acimには、知っている人は知っているだろうが、輪廻とカルマが仕込まれている。そのあたりを強調してurTextを称賛する人もいるのだが、ワプニクのヘレン評伝を見ればそれがいかに稚拙かわかるだろう。ワプニクもacimのイエスも不用意な誤解を避けた方がよいだろうということで外したのであって、騒動の種となるようなものではない。acimのイエスはそれを自覚してマニュアルを記した。
世人は、輪廻とカルマを、自己あるいは自我でも、その自分なるものが身体を抜けてカルマを持ち輪廻すると考えがち。あるいはカルマははずか、あるいは隠れた理神論者のように、そもそも物質しか存在しないのだから輪廻もカルマもないという。だが、本当にそうなのかは哲学的にはわからず、理神論者、つまり世俗科学主義者は馬脚を現す。
おそらく、問題はそうではない。自我あるいはペルソナがそもそも虚構ならそれは、反応として生じたものだということだ。私が私としてあるかに見えるのは、私が私としてあるような世界と歴史の、つまらない帰結、結果にすぎないということであり、その原因を構成する因子が類似すれば私はまたこの世界に虚構されるだろう、そういうことなのだ。
なるほど私の身体は二度と生まれない。が、それは別段科学的でもなくオカルトですらそう認める。死後の世界があろうと、愛し合う人は二度とその若い愛の時間を得ることはない。天国で結ばれるとしても、おそらくこの世の愛というものはない。その意味での愛とは、この身体であり、若い身体でもある。聖書のイエスが30の男として亡くなったのは、その性的な身体の意味合いであった。
身体はそういうものだが、しかし、では霊は、というとき、その霊こそがまさに、因縁として生じるものである。仏教が縁起をとり無我を取るのは、縁起する我は、存在しない虚構だからである。
そうなのか? そうとばかりもいえない。ヴィトゲンシュタインは、蠱惑的な修辞疑問を数多く残したが、最後に残ったのは、「我」というもののその不思議な確からしさだった。仏教的にいうなら、それこそ迷いのそのものにも見える。だが、それは、今、この有時においてのみ開示される、真なる我でもあっただろう。なにも超越的に真なる我なるものを措定したいのではない、有時というとき、その有の閃光の存在はそのようなものとしてあるからだ。acimのイエスがカルマも輪廻も否定するのは、学びの時は、その閃光の有時のなかにしかないからである。