三身論とか

 鈴木大拙の起信論概論に、仏教にも神があるとしていた。真如であるというのである。そこから三身論と三位一体を比較していた。西洋人にわかりやすい比喩であって、仏教内部の構成でもあるまいと思っていたし、実際そう。
 ネットなどで仏教をかまびすしく言う人は、(1)明治時代に帝大が志向した「原始仏教」、(2)檀家仏教の再世俗化、(3)前二者の混合、というくらいで、起信論や観音信仰というのを論じる人はほとんどいない(あと中論が若干か)。まあ、近代疑似の精神活動であり、反西洋というくらいのものなのだろうが、「原始仏教」は真なる仏教を幻想させるし、さらにそれに類似した上座部仏教を実質新興宗教のようにする人もいる。まあ、ありがち。
 それはさておき、三身論と三位一体はただの洒落かといえば、法身の非人格性は、三一の父に近いともいえないし、そこで子のキリストは報身と言えないこともない。応身は我々によりそうという意味で聖霊でもあるだろう。というか、これはやはりヘレニズム宗教としての仏教とキリスト教の同一性が背景にあるのかもしれない。
 法身=真如は毘盧遮那仏であり、法身阿弥陀仏であり、応身は釈迦牟尼仏とするのも、実際のところ三一と類型になっている。まあ、「原始仏教」的にはそれは仏教説ではないし、起信論的にはそうだろうし、そもそも起信論は仏教と言えるのか疑わしい。