終風日報編集後記 日銭を稼いで人生になる

 2ちゃんねる創設のひとりというのだろうか、ひろゆき氏の発言が話題になっていた。▼「福島の放射線の強い地域に残ってる人は、覚悟を決めてるのか、楽観的なのか、何も考えてないのか3つのうちのどれかだと思うのですが、「仕事がある」とか言ってる人って、目の前の日銭と自分や家族の人生を天秤にかけて、日銭を取ってるってことですよね。不思議。」▼現実的にはその三択ではないだろう。出口のないような状況に追い込まれているのが大半だろう。楽観的でもなく、そして考えてみてもどうにもならない。それを覚悟というなら、そういうこともあるだろう。「仕事がある」というのはそのなかでとりあえず生きるということでもある。▼「ぬちどぅたから(命こそ宝)」と沖縄ではいう。内地の「命あっての物種」とも似ているが、沖縄のそれは鉄の暴風のなかで言われた。生きるか死ぬかとなれば、生きることを選ぶべきだと私は思う。だが、生きる日常というものはそもそも奇妙な形をしている。▼子供の頃自転車を乗り回した。舗装も整備されず、タイヤの質も悪い時代、よくパンクした。自分でも直したが、直せないのは自転車屋に突いていく。自転車屋の親父は水を張った洗面器を出してなんなくチューブを取り替えるのだが、その時に使う道具は、彼の親指である。それは、いびつに変形していた。チューブを替えるという仕事のために変形したその身体を子供の私はじっと見つめた。仕事とはなんであろうか。▼もう20年も前になる。日本古代の冶金に関心をもったことがあるが、片目の面や片目の像をよく見かけた。冶金のための火を覗きで片目を失うらしい。▼仕事で身体を壊すことなど人道的なことではないというのはもっともなことだが、現実の人間は、これが仕事かと思えば、じわじわと身体を壊しつつも生きていく。命は宝であるが、仕事のために命をすり減らすこともある。繰り返す。まったくよいことではない。ただ、そういう生の形というものはあるということが、見えづらい時代にはなった。