江藤淳の痛みというか

 このところ、江藤淳の痛みのようなことをぼんやりと考える。彼も自決だった。そして、その自決は三島由紀夫と同質でもあったかもしれない。
 江藤は32年生まれ。昭和7年だ。三島は1925年(大正14年)。私の父が26年生まれ。
 父は大病で結果的に戦死を免れ、私がこの世にいる。彼の兄、つまり私の伯父はインパールで戦死した。つまり、殺された。父は私をその兄に似ていると見ていたふしがある。私は伯父の転生かもしれない(冗談ですよもちろん)。
 三島も実質戦争を免れた。そのことを内心、忸怩たる思いがあっただろう。彼は団塊世代の上にあたり、GHQの所作も見てきたし、戦後日本の欺瞞も見ていた。耐えられなかったというのはわからないでもないが、それより、自身の確立がGHQなるものとそれに結託する日本的なるものに耐え難かったのだろう、というのはわからないでもない。天皇崇拝みたいなものは、偽悪的に言えば、そうした仮託の偽装でもあった。
 吉本隆明1924年大正13年)生まれだ。あのよぼよぼの風体が、実は、三島の姿なのだと思い当たる世代の最後が私になる。三島なるものを本当に解体したのがあの老体なのだ。三島はあの老体を憎んで自死した。ただ、吉本も戦争を免れた。
 ちなみに、山本七平1921年(大正10年)の生まれだ。戦争にも行った。部下をみんな死なせてしまった。戦犯の恐怖から復員後一年吉野山に隠遁した。戦争なるもは、徹底的に内在化した。GHQなど幻影に過ぎなかった。戦後の影響は、戦争と同じように彼のなかで静かに解体していた。それがヒョンなことでオモテに出るようになり、そしてオモテで語り続けた。たぶん、これも露骨にいえば、死者が語らせたようなものだ。
 江藤は、微妙に団塊世代の前になる。むしろ、野坂昭如大橋巨泉青島幸男といったマスコミ薄ら左翼のなかにいる。そして彼らは団塊世代を実質操って文化人のような大衆支持のような正義で白粉を塗りたくった。吉本は自身の欺瞞の内省からこのうす汚い奴らを見ぬいて戦い続けた。三島は反動した。山本は傍観した。
 江藤はその世代の最中で、いわばバク転した。彼は夏目漱石小林秀雄の、大正的な近代性から出発しながら、むしろ小林を超えて、三島的なものに揺り動かされてしまった。これを解体できなかったのは、山本のような戦争の実体験がない、一種の引け目ではなかったかと思うし、まさにそれこそが三島だった。
 ふと思ったのだが、第三の新人というのは、団塊世代を上の世代から文学的感性で批判する意味合いはあったのだろうな。