晴れ

 九月になった。自公政権の終焉が夏とともに終わるというのは日本人の季節感からするとキリがよいというべきだろうか。小沢はかねがね一度政権交代を体験したらそのよさがわかりますよと言っていた。わかる秋の日となるだろうか。ならないような気がするが、この奇蹟のような手品をやってのけたのだからとつい期待する魔力が彼にはある。彼が自民を割って、そして自由党で小さな政党になったとき、政策政党であればよいのだと熱弁したとき、ああ、そうか、それはそうだと思ったものだった。多くの人が彼のもとを去り、北京が去らないのを横目で見ながら、これは長期的には中国人の目が正しいだろうなと思ったものだった。むしろマスメディアの毀誉褒貶があるなら、じっと彼を軸に見ていこうと思った。民主党でも乾されてもう引退かなと思ったが出てきた。自分と比較するのはおこがましいが、私は小沢に民主主義というものの理解で負けたなと思った。しかし、なんというか、そういう注視の日もこの夏で終わりでいいやと思った。政治がどうあるべきか。それがついに「日本が」に置き換わる。この国の存亡の危うさを知れば、そう思わざるを得ないのだが、しょせん政治は一人の生き方の背景でしかない。昨晩は、弾さん池信先生のれいの放送をダウンロードし、iPodで聞いた。そのあとは寝付かれなく、ぼんやりとしていた。