ブログと一言さんお断り

 洒落の元は「一見さんお断り」。
 「一言さんお断り」はコメントお断りという意味ではなくて。
 ブログのPVとかだが、
 ⇒Felix Salmon » Blog Archive » Notes on blogging for journalists | Blogs |
 ⇒フェリックス・サーモンのジャーナリスト向けブログ講座 - himaginaryの日記

いつものことながら、量と質の間にはトレードオフがある。質を落としてたくさん書くべきか、質を高く維持して少なめに書くべきか? 幸運なことに、この質問に対し、実証に基づく単純な回答を用意できるほどブロゴスフィアの歴史は十分に長い:もし選択を迫られたら、質より量を選ぶべし。個人的には嫌かもしれないが――実際私もそうだ――あまり頻繁にブログを更新しないとても優れたブロガーがいたら教えて欲しいものだ*4。

 「あまり頻繁にブログを更新しないとても優れたブロガー」というと風呂無駄さんとかふと連想するが、批判という意味ではないが、ぶくま数が高いのと、ブログの世界での影響力は違うのではないかな。
 というあたりで、「ブログの世界での影響力」って何よ、だが。これは、おそらくある程度の信頼を得たブロガー間のネットワークの派生のように見える。別の角度からいうと、ブログの世界だと、時折祭りのようなテーマが起きるのだけど、それをどのくらい「信頼を得たブロガー間のネットワーク」が影響されるかは必ずしも線形に対応しない。というか、ある程度のPVのあるブロガーで長期に継続している人は、話題に対するある種の責務のようなものを持っていて、祭りをフィルターする。
 このあたりは。

ブロガーというのは、多くの場合、自分の仕事については最悪の判断者である。個人的にも、とても良く書けたと思ったのにまるで注目されなかったエントリ、やっつけでさくっと書いたのに非常な反響を呼んであちこちに出回ったエントリの例を何百と挙げることができる。個人のブログエントリのレベルでは、ブロギングというのは、大抵の場合、宝くじみたいなものだ。もし籤を引き当てたいならば、買えるだけの数の籤を買うのが一番良い。

 これにある程度適応している。つまり、個別エントリのPVのバブル性と、孤独だが自分のブログの信頼性への責務との相剋みたいなところでバランスを取っている、というか、そのバランスがないと消えてしまう。(もう少しいうと、祭り化したときは、文化戦争のように意見はスキーム化されているので、個人の立場で意見を持つブロガーにはあまり発言の地歩がないものだ。)
 このあたりは。
 ⇒11D: The Blogosphere 2.0
 ⇒ブログの凋落? - himaginaryの日記

 
4.ブロガーの燃え尽き症候群
多くのトップクラスのブロガーが他の職業に専念するか燃え尽きるかした。アルファブロガーのみならず、多くのブロガーが、金銭的な見返りが無いにも関わらず、1日3〜5時間をブログに費やしている。それは自ブログのポストを書いたりコメントに応えたりするだけでなく、他のブログを読んだり、他のブロガーと交流する時間も含まれる。これを長期間続けるのは難しい。配偶者も嫌がるだろう。
 
5.読者の燃え尽き症候群
理由は分からないが、人々は以前ほどリンクをクリックしなくなった。経験から言っても、かつては大物ブロガーにリンクされると午後には10,000の新しい読者のアクセスがあったが、今やその数字は数百に減ってしまった。読者も新しいものを読むのに飽きたか、これまであまりにもくだらないところに飛ばされすぎたのだろう。

 この傾向がある。
 逆にいうと、この傾向のバランスが取れるとブログは続く。続けてどうよは今は問わないとして。
 あと、先のリンクに戻って。

そして、ジャーナリストにとって非常に困難な課題がある。それは、間違えろ、ということだ。私のもう一つのスローガンは、もし間違うことがなければ、面白くもならない、というものだ*5。ジャーナリストからブロガーに転じた人たちは、過ちに用心しすぎるきらいがある。そうすると、無味乾燥な、断り書きの多い文章になる。もしミスを犯せば、コメントや他のブロガーがすぐに教えてくれるので、取り消し線や追記によって、堂々とそのミスを修正できる。あなたが自分の言ったことを隠さず、自分の言うべきだったことを明らかにすれば、その点について尊敬を得るだろう。ジャーナリズムでは、書いたことがそのまま公の記録の一部になるし、いったん刊行されれば取り消して変更するのは非常に難しい。ブログでは、それが可能だし、また実際にすべきことなのだ(ただし隠微なやり方はNGだが)。

 ブロガーというのは間違ってもいいし、むしろ間違えるのを恐れないほうがよいと思う。
 例えば⇒はてなブックマーク - 週刊新潮の襲撃実行犯の話 - finalventの日記

kanose マスコミ, 新聞 掲載一週目だからかもしれないが、今読むと何ともいえない記事だこと…。でも、新潮の盟友である週刊文春でもツッコまれていたのに 2009/08/23

 kanoseさんお得意の、後出しじゃんけん上から目線だが、こういうふうに考えていくのがブログでは一番よくないと私は考えている。ちなみに該当エントリだが、kanoseさんの後出しじゃんけん上から目線は当たっているとは思わない。
 これに関連して。

ここでまた別のスローガンを披露しておこう。「あるブログの質は個々のブログエントリにあるのではなく、ブログそのものにある」 メディアの業界団体がオンライン世界にも手を伸ばそうとして、ブロガーを対象にした賞を設定するということがしょっちゅうある。その際、決まって応募用紙に書かれているのは、自分のブログのベストエントリをいくつか挙げろ、というものだ。そしてそこに書かれたブログエントリが審査員によって読まれ、最優秀ブログが決められる。
 
これはもちろん馬鹿げたことだ。他の人たちにリンクをするだけの偉大なブロガーもいる*6。個々のブログエントリにはあまり価値はないが、全体としてみた場合、およびその編集の役割を考えた場合、価値は計り知れない。

 これはかなり重要な指摘で、「あるブログの質は個々のブログエントリにあるのではなく、ブログそのものにある」、オリジナルは、“the object of quality in a blog is not the individual blog entry, it’s the blog itself”、つまり、「あるブログの質は特定のエントリによるのではなく、そのブログ自体にある」、つまり、たまに受けるエントリがあるとか、エントリ単位で受けを狙うというより、ブログとして発信し続ける定常性に質が問われる。
 これに対して、一言さんは、基本的にエントリーベースだし、基本的な受動的な批評家であって、ブログのように、罵倒や「後出しじゃんけん上から目線」を受けつつも発信していくことは違う。
 というか、そこに価値があるのだということを理解するのが、ブログというのはとても難しいメディアなんだろうと思う。