蝉の声

 若い頃身近に米人がよくいて、蝉の声が聞こえる季節になると、あれって英語でなんていうのと聞いてみた。cicada、locustと、おきまりな答えなのだが、どうもイメージが違う。いや、それを指し示すという点では同じ実体を指すのだろうが、どうもなんか違うな、違う世界を見ているなという感じがする。なんというのか、あれ、おじゃる丸に出てくる電ボ三十郎みたいなイメージで、ああいう透明の大きな羽根をもってばたばたという存在を、cicada、locustと呼んでいるのだろうなと思った。
 自分はセミというとなんだろ、とにかく米人たちのイメージのそれではない。なんというのか、もうちょっと奇っ怪なというかしょこたんが頭に飾っていたあれみたいな。
 それと蝉の声がどう聞こえるかと聞いてみるのだが、要領を得ない。雑音が波音のように聞いているのかもしれない。米人の脳、みたいなアホーな議論をしたいわけではないが、蝉の声を、なんというのか、日本の夏の自然の声のようには聞いてないようには思えた。なんなのだろう。なんというのか、彼らはそれは音として世界に注入されているのか、取り外せるような何かなのではないか。顧みて自分はというと、夏の世界から蝉の声は抜けない。うるさいなと思って窓を閉めてエアコンをかけることはあっても、その世界は蝉の声と一体化している。
 蝉の声を聞いていると、ああ、夏だ。そして子どもの頃も、50歳を過ぎた自分も、ああ、蝉の声を聞いていると、ああ、夏だと思う。生きていることはこうして蝉の声を聞いていることなんだろうなと思う。