私の人生観を決定づけた大森荘蔵の言葉

 「物と心」より。

 こうして如何なる解釈をとろうと、確率論は帰納の意味を明確にはしたが、帰納の問題に解決を与えることができなかった。むしろ確率論の経験への適応可能性が帰納の正当化に依存するのである。

 正当化が論理的に不可能だ、ということも全く正しい。理由は簡単で、ヒュームの言う通り、過去が未来を些かでも規定するという補償が些かもないからである。しかも、何の正当性もなくわれわれは現に無数の帰納を行っている。それが定義上「合理的」だからである、と言うことは念入りな冗談という以外はない。

 実はその意味で科学にはなんら合理性はなく、念入りな冗談に過ぎない。
 合理性ではなく、それは賭に過ぎないと大森は言う。

 この、未来と過去の類似、過去世界の世界像の未来への外挿はこれまで何の根拠もない独断的仮定として非難されてきた。しかし、これは仮定ではなく賭なのである。そして、何の根拠もない賭けなのである。

いかに賭けるか、つまりどのような内容の賭をするか、これは人によりまた時代により異なる。今日の「生き方」では、鰯の頭が災厄を防いだり、気胸療法が結核に対する有効性を持つことに賭けない。科学者は、百万年後の一日が24時間だとは賭けないし、五十億年後に一日に朝があって陽が上がることには賭けない。

 賭けという点で迷信と現代の科学は差がない。あるいは、賭けの本気度に差があるだけで合理性はない。
 ではなぜ、私は、私たちは賭けてきたのか。
 それ以前に私たち人類はこの賭に勝ってきた。しかし、明日はわからない。

今日までの人類の存続と繁栄がその証拠(というよりその記録)である。だが、明日の成功を保証するものは何一つとしてない。

では明日の世界は? 明日の世界での成功の保証は何もない。

 ではどうしたらよいのか。
 大森はこのエッセイの終わりに近くこう言う。

われわれはただ賭けるだけである。それが生きることだからである。

 生きるということは、この賭に参加するという意味しかない。
 そして大森は最後にこう言う。

さあ、賭けよう、さあ、生きよう、とことん賭に破れて息の根がとめられるまでこうするのがわれわれの生き方なのである。命を賭けなければ命がないのである。

 で。
 私はといえばその賭けのテーブルの向こうに、若い日に十字架を見た。信仰告白みたいだが、十字架は、あなたを作ったのはわたしだと言っていた、ように思えた。世界が、古代ギリシア哲人や仏陀が想定したような、ノモスというか理法のからくりではなく、一人の人の意志の姿に見えた。そのとき、万物は被造だという奇妙な確信を持った。ノモスの世界ががらがらと崩れ落ちた。さあ、この世界で、私と生きようと神に向き合って問われたように思った。
 まあ、信仰的なレトリックはさておき、世界というのは、法則性の総体ではなく、一つの意志として私という一回生に結びつけられてしか存在しないのだと思った。