ハイデガーとか

 ちなみに私のハイデガー観みたいのはこれが多めに書いたかな⇒極東ブログ: ハイデガー「技術論」から考える新しいゲシュテル
 あとこれもかな⇒極東ブログ: [書評]反哲学入門 (木田元)
 これはfinalventってバカなんじゃないのとかデカルト読んでなさげな人たちに言われたけど⇒極東ブログ: 「我思う故に我有り」は微妙に誤訳なんじゃないか
 でと。
 レスではないけど⇒ハイデガーについてもうひとこと言っておくか。 - 呂律 / a mode distinction
 しかも文脈は違うけど。
 自分とハイデガーの出会い♥をちょこっと。
 最初にずばっと言ってしまうと、ハイデガー好きのみなんさんは、ハイデガー好きになる前に、哲学史というか西欧の哲学史の危機みたいな知の雰囲気に惹かれすぎていると思うのですね。そしてだから、コジェーブ、サルトルデリダみたいなふうなものに、ちょっと悪口みたいな言い方だけど、酔っている感じがしますよ。
 このあたりは実はけっこう精緻に読まないといけない部分があって、意外というと悪口みたいだけど、南無さんがフレームワークをしっかりしていた。
 で。
 そういうふうな道を取ると、どうしても「存在と時間」をきっちり理解しなくては、というふうになって、そして日本だと、儒学の伝統みたいに訓詁学になってしまう。でも、このとき、ハイデガーがどんだけ解釈学的思考において、荒くれるかというのは忘れている。
 たしかに、「存在と時間」をきっちり理解しなくてはコジェーブ、サルトルデリダみたいなものについていけない。カミュサルトルに、勉強せーよと軽くいなされてしまう部分はある。そしてそれを理解するには、さらにフッサールをという流れになる。ただ、このフッサールという場合に、いわゆる現象学と後期の生世界の部分と(雑駁に言うとだけどね)があって、後者のほうはハイデガーの転回と繋がるというか、西欧の知と存在の危機という認識がある。この危機ってどういう感触かっていうのは、西欧人みたいな歴史に埋め込まれていると自明なんだけど、日本人にはあれはよくわからん。むしろ、日本人には別の歴史的危機というかあるんだけど、というか、そのあたりの、正直いうと滑稽な表出が近代の超克ってやつですね。このあたりは、柄谷行人がしょろしょろと触れているところ。
 このあたりの迷路というか隘路は、木田先生が解き明かしてくだすった感はある。
 でと。
 私は、なんつうか、そういうハイデガーとの出会いをしてないのですよ。
 ではどういう出会いだったかというと、村野四郎です。
 ⇒村野四郎 - Wikipedia
 村野四郎というと、「体操詩集」(昭和14年)みたいに、まあ、西脇順三郎とみたいに、欧米的なみたいな理解だけど。
 ⇒西脇順三郎 - Wikipedia
 議論されたのみたことないけど、「体操詩集」(昭和14年)はとんでもない詩集ですよ。ぶっちゃけいうとハイデガーのサイテーさがよくわかるような。
 話を端折ると。
 村野はある意味で私のティーンエージの詩のお師匠さんでもあって(ちなみにもう一人は山本太郎)、まあ、影響受けたわけですよ。で、だから、わかった部分が多いし、村野は誰も聞いてないっつうのなのにぼそぼそ後期ハイデガーを語り続けていたボケ爺さんだった。
 でも、そこに意外とハイデガーの本質みたいのがあって。
 これがけっこうすんなりわかってしまったのですよ。当時は角川文庫のだったけど。

cover
「ヒューマニズム」について―パリのジャン・ボーフレに宛てた書簡 (ちくま学芸文庫): マルティン ハイデッガー, Martin Heidegger, 渡邊 二郎

存在と時間』(1927年)において、世界内存在する人間の実存を深く掘り下げ、これを現象学的解釈学的に精緻に分析して、哲学界に深刻な衝撃を与えたハイデッガー。そのハイデッガーが、第二次世界大戦を挟む長い沈黙を破り、書簡体の形式で世に問うたのが、この「『ヒューマニズム』について」(1947年)だった。いわゆる人間中心主義の「ヒューマニズム」を批判しながら「存在の思索」を説くこの小さな本には、後期ハイデッガーの思想が凝縮した形で表明されている。「故郷喪失」の現代の「世界の運命」のなかで、私たちは存在の「開けた明るみ」の場のうちに「住む」ことを学び直さねばならない、と。

 というのをむしろ先に見てしまったから、私にはサルトルは、率直にいうと、知識人がマルクス主義に堕していく典型例の意味合いを覗くと、実存主義とかただのアホちゃうかと団塊世代実存主義に入れ込んでいたのは、ひやっとみていた。
 まあ、そんな感じですか。