直感みたいな

 ジェインズの本を読みながら、
 ⇒年末読んでいた本 - finalventの日記
 ときどき、ああ、これだこれだと思うことがあった。ジェインズの直感というか、疑念の重なりのなかでこう考えればシンプルなんじゃないか、こう考えることは間違いではないか、というのを、剃刀で切るようにすぱっと見渡す直感がひらめくあたりだ。
 今思うとああいう、無意識的な直感で、すぱっとものごとの本質がわかってしまうようなことは30代まではあったなという感じがする。思い返すと、40代以降はあまりないような気がして、そして50代になった自分は、直感というものはあるんだけど、あの、すぱっ切れるような直感はなくなったなと思った。
 逆に自分が正しいと考えていることについてなぜそれが正しいと自分は思っているのだろうかという疑念のほうをじんわり考えるようになった。
 自分にとっては自明のことでも、世間的には自明ではない定説ではないという部分については、あまり語らない。語っても意味がない。ただ、気鋭の学者というか信頼できそうな学者が少し踏み出して言うときはそれに便乗するかなというのはある。
 二分心については、自意識を疎外して他者化していくという心的な機構つまり機能論と、実際の左右脳の構造として見る部分つまり構造機能論には方法論的な齟齬があり、ごっちゃにはできないし、科学の水準だと後者の構造機能から論じることになるが、前者が議論できないか推論になる。ただ、ジェインズの直感はそこの、区分めいた方法論へ果敢に挑戦してしまっている点がある。
 ジェインズが生涯を掛けて問うた意識の起源は、吉本と同じように共同幻想の起源でもあり、まさに人類的な課題なのだが、思索者によってその総体をどう捉えるかに奇妙なズレのようなものがある。
 そうした部分を若い時は、すぱっと切れないものかと、つまり、理論として整合できるのではないかと思っていた。が、直感的な部分が衰えてから、そうではない、人が一生を掛けて問うた問いの意味というのを受容することで自分の思索・存在が逆に問われるように思うようになった。
 ああ、ベルクソンはそう考えるのかということがわかれば、それ以上はないというか。ベルクソンの哲学を哲学史に位置づけるといったことはベルクソンの哲学にとって意味がないというか。そして実にベルクソンという人はそういう思索をしている。小林がそこで蹉跌したかに見えるのは、ベルクソンという人に帰着して終わったからで、では、本居宣長という人に向かおうとしたのだろうと思う。れいの「身の丈」の思想とは、生活者としての思想ということではなく、人の死をかけたのっぴきならぬ問いに全生涯をどうぶち当てたかということなんだろうと思う。ただ、その割に、宣長も小林も女を隠したなと思う。
 恋をするといことは、おそらくそうした全生涯の思索の不思議な種を撒くことになっているのだろうと思う。吉本隆明の人生にもそういう奇妙な結実があるが、あまりこれも語られない。
 こういうふうに言うことは間違いでもあるのだが、男が恋をしてそこで死ねるという確信を得るために女との恋があり、それが(恋の世間的な結実如何は別としても)男の一生の実際の死までのその意味化のプロセスを意味づけるのだろう。その遅延のなかに、共同生というものが問われるためのズレなのだろう。女はというとそこはよくわからない。