ま、そうかな

 ⇒合理ゆえに我信ず - 地を這う難破船
 丁寧に考察されている。
 あと、小林秀雄と偽科学については「感想」(参照上参照下)を実際に読んでみるとよいと思う。小林秀雄という人がどのようにテキストを読むかがわかる。ただ、結論からいえば、物理学的には時代的な制約もありどっちかといえばトンデモなんだけど。ただ、それが、「感想」の失敗だったとも言い難い。

水からの伝言が物理法則の合理性において世界を記述し「説明」するとき、それは「真理」と世人に誤解されがちな科学的認識の、誤解を承知しての横領であり、すなわち社会資源の概念的な横領であり、物理法則の合理性において世界を記述しようとすることの、まさにポパー―クーン的な倫理に対する「冒涜」であり、物事を合理的な帰結として了解することの――物理法則の合理性の絶えざる確認がセッテイングする人間存在とその内的世界の不合理に基づいた――陥穽としてあります。

 もっと簡素に言えるとは思うけどスタイルはそれとして、「ポパー―クーン的な倫理」という水準がどう成立するかということ。
 私が最近思うのは、知は、「ポパー―クーン的な倫理」の倫理はさておき(正確にいうとsk-44さんは誤読されているように思うけど)、「ポパー―クーン的な知」というものが、知によって易々と読み込まれ、知識人にスキーマティックに理解されることで、その了解が社会的に次の地平に立つというものではないこと、つまり、彼らが演じた劇の性質の了解に問題があるのだろうということ。
 その意味で、その劇が、市民社会の倫理として、つまり、我々の社会がどのように科学を了解・合意する市民社会的なプロセスのために、きちんと追体験ができていないことで、別種の権力---それこそが市民社会の倫理によってそこから保護されるべきだったもの、あるいは啓蒙の持つ危険性が---露出していることに危惧を覚える。ま、そこまでいうと、sk-44さんと同じ結論かもしれない。
 別の言い方をするとローティ的な問題。
 ⇒極東ブログ: [書評]〈現代の全体〉をとらえる一番大きくて簡単な枠組(須原一秀)