今日も猫猫先生に啓発される

 ⇒昭和30年代へ行け樋口康彦 - 猫を償うに猫をもってせよ
 今日も猫猫先生に啓発される……それはさておき。
 以下、私の女性への偏見です。なので見逃してというわけでもなく、こういう偏見から抜けられないなという、いらだちかな。
 で。
 女性が男を選ぶとき、なにか、チャンネルが切り替わっている感じがする。
 以前アリーmyラブで、アリーがガススタンドのお兄さんとカーセックスしちゃうシーンがあったが、それと、中里恒子の誰袖草で中国人の男と列車のなかでセックスしちゃうシーンがあったが、ああいうとき、女のなかでなにか、チャネルが変わって、合理的な判断をしているような気がする。性欲というのではなく、なんか、ある種の合理性というか。もうちょっと踏み込むと、ああ、この男は後腐れないなは計量されている。
 よくモテテクなんかがネットにあるけど、この後腐れなさを身につけるみたいのが多いような気がする。で、この後腐れなさというのは男の自我に関わっているというか。
 女も、心のなかにこの男は入ってこないなという安心感だし、男もそういうとき心を失っている。
 で、おセックスは別にそうした心のひりひりと痛い部分が露出することがある。
 そこのところで、ある種の非言語的だけど、合理的な判断というのがあって、生物的な判断なのかもしれないけど、この男と暮らそう、この女と暮らそう、手鍋下げてもみたいな部分があって、そこに来ないと、恋愛というか、共棲(ともずみ)というのは成立しないのでは。
 ま。
 この手の領域は私は苦手だし、たいていの人は苦手かもしれないが、普通に生きていると、共棲(ともずみ)と性の部分の調停というのは、生物的な感性としてあるような気がする。
 あと⇒極東ブログ: [書評]ぶってよ、マゼット 47歳の音大生日記(池田理代子)
 
追記
 ⇒はてなブックマーク - 今日も猫猫先生に啓発される - finalventの日記

2008年08月23日 numberarmytheboots コミュニケーション リスクは女に分散させろ、ということですね

 違うよ。男女ともにこうした調停の感性はあるよ。