だから

 ⇒「死ね!」と言われて自殺を図る子にコメント承認制は効果がない
 そこがポイントじゃないんだってば。
 それと。

「死ね!」コメントはもちろんイケナイ物だと思うし、排除されるべきと思うのだけど、罵倒も含めてネガティブ言及をコントロールするのは難しく、その対策をサービスに要求してもすぐに叶えられるものとは思えないので、耐性を備えることができない人は「コメントを受け付けない」「アクセス解析を見ない」のが手っ取り早いのではないか、と思います。

 あのね。
 「「死ね!」コメントはもちろんイケナイ物だと思うし、排除されるべきと思う」に寄与できる部分があるとしたら、それはなんなの? とブロガーとして考えたということ。
 あまり言いたくないけど、というかまた上から目線とかいわれたり頓珍漢な誹謗中傷受けるからやなんだけど、数千PVもあるようなブログのエントリに、「死ね」とか、知らない人の個人メールアドレスものがコメントで公開されるんですよ、ほっておくと。 エロリンクだけならいいけど、踏むな危険みたいのとかもあるし(いちおう直リンクできないようにしてるけど)。
 で、できるだけ、あまり酷いもの、とくに著名人じゃないと思われるような個人情報に関連した中傷っぽいのは、最低限、それなりに削除はしてきたのですよ。
 でもね、そういうのに十分に対応できなくなりつつあるし、そもそもそんな、誹謗中傷・デマみたいなものが、自分のブログでコントロールできないところで数日も放置されていいわけ? わかる?
 それと。
 耐性を備えることができない人はコメントやめろ論は、梅田さんが言っているメリットを殺す。それはもったいないよ。
 で、じゃ、コメント開くならマッチョたれ、とか、ダンコーガイとか越権さんとかの議論は、ブログ文化を後ろ向きにしていくだけですよ。
 っていうか、承認制なら多少の不便があってもベターじゃないですか、と。
 しかも、これは、これからブログを始める人も、数千PVのあるブロガーでも、不便もあるけどベターでもある提言だし、ブログの内側からルール意識を持つことで、国家的な制御への対抗の主体形成にも繋がるでしょ、と。
 ついでに言うと。
 承認性にしたからって、「死ね」コメントは見るから同じじゃないか、というのは、違いますよ。そこは承認チェックでは若干マッチョになるしかないけど、自分の知らない時間帯に、自分に責が問われるところで誹謗中傷が晒されてそれに加えて「死ね」と言われるよりはマシですよ。
 「私」が「私への誹謗」のメディアにさせられることは承認性で防げるのですよ。「私」が「私への誹謗」のメディアに強制的にさせられる苦痛というのが、想像もできない? 「死ね」を見るのは同じだからでない部分があるよ。
 っていうか、十全な解決策なんか前提からしてないのだから、ベターなことをしましょうよと。PVの小さなブログにはやや保護になるし、大きなブログにはそれなりのブログの世界への貢献になるでしょ、と。
 ついでに。
 恣意的にコメントが削除されるかもしれない問題には、「で?」と答えるしかないですよ。それはブログにウソがテンコモリになる可能性があるのと同じ。そのブロガーをどこまで信じるかということで、そんなの社会だってそうやって人間関係を作る。
 うそブログが放置されるかもしれない危険性があるというなら、そう思う人が対抗のブログを作る。そして公開に問いなさいよ。
 私は、ブログの世界で、ああ、やばいというときは、それなりに、まあ、できるだけ穏和にしたいなと思うけど、批判はするよ。
 ついでに。
 承認性の基準は何か? そんなのは俺がなにを承認しているかごらんなさい。都合いいことだけ承認しているかどうか。私は、マッチョ志向ではないけど、私は真理を愛する人なんで自分の議論が否定されてもそれが真理なら喜ぶ人間ですよ。
 最後に。
 「アクセス解析を見ない」はある程度賛成。ただし、どのくらいのPVがあるかはざっくりと知って、その公開に対する責務の自覚は持つべき。