小林秀雄のこと

 ざっと読んだだけでコンテクストがよくわからないのだけど。
 ⇒橋本治「小林秀雄の恵み」(2) - 日々平安録
 こちらはスキーマティックなので理解しやすい⇒橋本治「小林秀雄の恵み」(1) - 日々平安録
 まあ、ただ、少し離れて、いわゆる小林と宣長のことということで、ちょこし。
 以前にも書いたけど。
 小林秀雄という人は、ちょっと私の強引な視点だけど、基本的に西洋の枠組みでいえば神学をやった人。それを「身の丈」とか、「日常」とかいうため誤解される。けど、それは、いわゆる日常ではなく、近代合理主義や科学主義みたいにな世界観に対応している、人間の常識に潜む神学的信念の由来、根拠みたいなものであって、ある意味、フッサールの還元に近いものだ。またフッサールによる科学批判にも近い。
 で、根幹には神秘的実在の明瞭な感覚があり、それは、実は小林の初期から一貫して流れている。
 この問題は初期には女と罪の関係に表現され、これは実は終生小林のテーマになっている。
 中期的には芸術論のようになっているのだが、端的にいえば、ゴッホでありドストエフスキーであれ、根幹にあるのは、キリスト教。つまり、小林はキリストという「よき人」との出会いの意味を問い詰めていた。というか、ここには明瞭な、時代と悪魔の認識もあった。彼にとって、20世紀の錯乱は悪魔そのものだった。このあたりは、小林と悪魔の問題で抜き出すと意外なスレッドがある。
 この系列は、山本七平がかなりえぐりだした。
 

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小林秀雄の流儀: 山本 七平
 ただし、山本は山本で近代日本、つまり、現人神という悪魔のとの格闘と、彼自身の性の問題から、小林の神秘的な部分と日本的霊性のような部分からは距離を置いた。わかってはいただろうが、書かなかったというかここには微妙に山本による小林への憎悪のようなものがある。
 「本居宣長」は、ベルクソンと日本的霊性の言霊論のようなもの帰結になっている。ので、ベルクソン論が読めないと、全体の意図はわからないのではないかと思う。
 というのと先のエントリでも思ったのだが、橋本治はもしかして、「本居宣長」の元テキストを知らないのではないだろうか。
 「本居宣長」は新潮連載の元テキストと現在の大成本との間にずれがある。というか、元テキストが公開されないとわかりづらい点があるが、ただ、残念ながら小林秀雄研究の裾野はそれほど大きくはない。というか、小林秀雄のわかりやすい部分だけが広まってしまった。
 本居宣長は死後の世界を描いた(あるいは死後の世界のような神学世界が日常経験のフレームワークになる必然性を説いた。秋成との論争はそれを意味している)。そしてそのような死後の世界を描くことが日本人の生き方を規定していること説いた(だからあの遺書を書いて終わる)。小林はその死後の世界の構造の神学的な意味を説いたという点で、ベルクソン論の冒頭にでてくる、「おっかさん」の魂を描いた。
 まあ、もう少し接近していうと、とりあえずの諸問題は、ベルクソンにある。
 で、そこでいうと、小林秀雄ベルクソン論は、沢瀉久敬に近いというか、基本的な部分で影響を受けているかのようだ(必ずしもそうではないが)。
 ただこのあたりは必読⇒「 アンリ・ベルクソン: 本: 沢瀉 久敬」
 ⇒「 ベルクソンの科学論 (1979年) (中公文庫): 本: 沢瀉 久敬」
 アマゾンを見ると「ベルクソンの科学論」はプレミアムが付いている。こういうのを若い知性が安価に読むことができないということは、困った状況だなというか、日本の知性が弱くなっていくのもしかたない構造面があるなとは思う。
 ベルクソンは、ドゥルーズの根っこにもあり、ある意味で、ベルクソンに魅せられたひとなら暗黙でわかるシャレのようなフレームワークがある。ただ、日本のポストモダンは、反マルクス・エンゲリスムでありながら、スターリン的な科学観(これがネットの疑似科学批判と同型なんだけどね)とイデオロギー的に結託してしまったので、なんだかお笑いみたいになり、そして終わった。
 
追記
 「本居宣長」の現代的なコンテクストでわかりやすいのは、契沖かもしれない。この阿闍梨に自殺をしいたものとそれを救ったもの。「俗中の真」というもの。
 ⇒契沖 - Wikipedia
 自殺を試みた話な載ってない。