曇天

 ユーミンの「人魚姫の恋」を聞きながら、これをべたに聞いて、いつか自分が目覚めると思う40歳以降の女性がどのくらいいるのだろう、いやどのくらいという数ではない、心の形というか、思った。ユーミンが何を思ってこんな曲を作ったのか、わかるようなわからないような。女というものはわからないものだなと思うが、では男がわかるかというと、男とは私にとってはただ他者でもある。私はどうも男が親密に話し合う空間が気持ち悪い。女性が多い空間も苦手だ。適当な数まざって機能的しているくらいでないと、気持ち悪くなってしまう。が、では、ある程度少数ならどうかというと、どこかで心が動揺する。何かを自分が無意識に隠し持っているのかもしれない。中村中の歌をすんなり理解・共感してしまう自分の心の形もなにか奇妙だ。母子関係の問題がまだまだあるのだろうか。あるいはそこから一生出られるものもないのか。
 うかつながら、ミルトン・エリクソン関連の本を読み直してというか、あたりまえに彼自身のコンテクストに近い形で読み返すと、いろいろ考えさせられることがある。第一に、彼は50年代の人なのだ。つまり、あの戦後の米国の空間というものがあり、エリクソンがその頃の米国民を映し出してているという側面がある。ある意味で自分にはあの時代の映画のように確認できて、ほぉと思っている。
 とか言いつつ、ヘイリーのエリクソン観が唯一とも正しいとも思っているわけでもないが、アンコモン・セラピー的なファミリーサイクルというのは、人間の悩みなりのフレームワークなのだろう。ファミリーサイクルは家族サイクルのように訳語を当てざるを得ないが、もう少し対幻想的なもので、エリクソン自身の感性は意外と吉本隆明などにも通じるものがありそうだ。時代的な制約もあるにせよ。
 吉本はどうでもいいのだが、吉本などにも結果的に影響しているあの時代の民俗学的な知見というのと、伝統的なファミリーサイクルといえば、米国ではマリノフスキー、フランスではモースといった、プレ構造主義的なそれでいて構造主義よりも思索の射程の長い一群の何かがあった。というか、構造主義が結果的にモデルとして表出側でみた構造より、彼らのほうが内在的な構造、よりダイナミックな構造というものがありそうだ。これは出力側から構造と想定されるものより、むしろ生成ルールのようなものだろう。
 話を端折るが、はてななどでよく見かけるテンプレ的な話題の大半は、実は、ファミリーサイクルの問題に吸収されてしまうのではないかという気がした。ちょっとこれを言うと誤解されるだろうがというかそこまで私のエントリが読まれているわけでもないだろうからちょこっと言うと、非モテ・童貞云々は伝統的な婚姻のフレームワークの変動期の反照でしかないのだろう。同棲とかソープに行けとかは、つまりファミリーサイクルのなかでの通過についての社会側の揺れが、むし生成的な構造による圧力でメタフォリカルにあるいは断片的に出てきたものだろう。と言った手前、ようするに大半の凡人はメーティングしろよ(おセックスして子どもを梅)みたいなところに収束しそうだし、エリクソンはどうも人間というのはそのような生物社会学的に見ている。別の言い方をすれば理屈・解釈といったことを彼はまるで信じておらず、個々人の性行動戦略のフレームワークに必然的に時代や社会がもたらした歪みを生物的な側での調停点をもうけようとしているように見える。
 と、考えてみると、いわゆるオウム的なものとかそれ以前の極左集団なども、基本的に青年期の問題や性の問題であり、その背後には、つねにメーティングで安定する多数の無意識を背景にしていた。その無意識の引き裂き具合の一部の極性が象徴的に反社会的な行動に出てしまう。つまりそれ自体が社会変動の力学のフレームワークなのだろう。
 現代にエリクソンがいたとしてこの問題に同対処するかといえば個別にだろうし、ようするに増田の救世主みたいになるのだろう。彼自身は投影的な問題敏感だったようだが、いわゆるエリクソン的に定式化されたものにそこは含まれえないだろうから、いわゆるNLP的なものも含めてある種、どれもエリクソンではないという逆説のようになってしまうだろう。というか、その点、ラカンなどは日本ではニューアカ的に理解されることがあるが実際にはフランスではベタな実技集団であり投影の実技が基本に置かれているようだ。