晴天、西日本は大雨とのこと

 沖縄で暮らしているころ東京に電話をかけると気象が随分違ってそれが話のトーンに表れ、奇妙な思いをしたものだ。沖縄では台風のただ中にあるころ東京は暢気な日というのもあった。
 松任谷由実の「人魚姫の恋」をぼんやり聞きながら、なんというのか聞きたくもないという嫌悪とは違う、それでいてどうしようもな気持ち悪さのようなものをぼんやりと思う。よくわからない。無意識的になにか思うことがあるのだが、意識が抑圧しているのだろう。
 「諸君」に岸本葉子香山リカ関川夏央の対談があり、関川がお兄さん、岸本、香山が40を越えた行かず妹みたいな設定のノリだった。というか、関川のボケ具合がほのぼのさを出していた。編集者の意図はそのあたりにあったのだろうか。私ならなにか別のことが聞きたいと思うだろうが。対談のなかで、岸本が、冗談を交えて、今の自分は父親と同じ墓に入るという発言があった。心にひっかかる。彼女が同棲なりをしていない(たぶん同棲はしないようにも思うが)としても男との関係性をどう築いて(築くというのでもないが)いくのか、その線のなかで、家制度的な墓の意識は分離されているのだろう。たぶん、子を産まないということからある種の必然の道なのだろうが、そのあたりの意識は5年なり10年後に語るのだろうか。そういえば、事実上結婚関係にも近かった荻野アンナの場合も、なにか心にひかかるものがある。
 日本では話題にもならないが、ロワイヤルの事実上の離婚の話も、私は何か心にひかっかった。別に婚姻制度がということではない。子ども少なからずなした関係でも私の歳ほどで男女の関係性は終わるのだろうか。このあたり、欧米人の意識というのは本質的にわからないことがある。なんとなくだが、彼女にもオランドにも別の恋愛のようなものがあるのではないか。私だけが知らないだけかもしれないが。
 40歳から50歳を越えていくあたりで、奇妙な性の風景がある。いわゆる性行為的な身体的な部分についても、衰退(それは単純な衰退ではない)という自然性に規定されているかといえば、そうではない。そんなことはあたりまえだろうということではあるが、生きてみると随分印象が違うものだ。
 吉行淳之介の「夕暮まで」を読み直しながら、佐々の設定が50歳前であることを、少し考えた。単純に考えれば、それ以前の作品のように吉行自身の意識を反映したものと読めるし、ある意味であの作品はそういう部分も濃い。だが、この小説を覆っている奇妙なものは、50歳の男の性の思いとはなにかしら違う。それもまた、死の世界に近い薄気味悪さがある。