あまりに奇妙な偶然というのは
何かしらその背後に人生の意味みたいなあるいは神のべたな采配のようなものがあるように感じられる。そして、そう感じられるならそれはそれで一つの人生観というか、信念というか、確信・信仰というものになっていくのだろう。
ピンチョンの「競売ナンバー49の叫び」みたいのは、ある種メタ小説なり小説の技法として読まれているのだろうし、ピンチョン自体もそういう趣向もあるのだが、あれはあれでけっこうナチュラルにこの世界の奇妙な感触そのものを描いている。
⇒「競売ナンバー49の叫び: 本: トマス ピンチョン,Thomas Pynchon,志村 正雄」
こうした偶然性みたいなものが個人で閉じているなら、ピンチョン的な両義的な世界、あるいは世界そのものの陰謀論的な幻想を誘発するだけで終わるのだが。
そういえば。
⇒極東ブログ: [書評]その夜の終りに(三枝和子)
で染代は、カオルを自分の娘ではないかと疑う。それに対して恐怖と自信のなさの、意識の混迷のようなものに捕らわれていく。妄想といえばそうなのだろう。
ああいうものがもう少し妄想でなく世界に顔を出すとき、それはなんなのだろう? というか、そういう物語、ご都合主義がけっこうあるものだが、それは反リアリズムというより、そういう強引な物語性でしか表現できない奇妙さを語っているのだろう。
他者を巻き込むようなある種の奇妙な偶然性というのは、なにかしら恋愛の感情のようなものに隣接している。もちろん、恋愛の感情の渦中にいるなら、他者から構成される世界はすべてある種の符帳を持つかのように考えられるものだろうが。
まあ、なにしら奇妙なできごとはただ単に偶然というだけというか、結果として心のありかたのゆがみというだけのことかもしれない。
それはそれで過ぎ去っていけば、不思議がことがあったなというだけのことで終わるのだろうし、人によってはそれが意味があることかもしれない。