朝日社説 長崎市長銃撃―このテロを許さない

 私もまたかという最初思った。なので。

またも長崎市長が撃たれた。

 ということもわからないではないが、こう書き出すかは難しい。
 読み進めると。

 伊藤市長は95年には国際司法裁判所の法廷で証人として立ち、「核兵器使用が国際法に違反していることは明らかであります」と世界に訴えた。核保有国の核実験には抗議を重ねた。
 北朝鮮の核実験に関し、日本国内で自民党幹部から核保有論議の容認発言が出ると、「看過できない」として非核三原則堅持と外交での解決を求めた。
 容疑者の動機がなんであれ、反核運動が萎縮(いしゅく)するのではないかと心配だ。反核運動に携わる人々はひるむことなく、発言を続けることが、伊藤市長への激励となる。

 こう話を作っていくのだが、それは現段階では慎むべきではないか。むしろ、反核運動に携わる人々のためにも慎むべきだと思う。
 言うまでもなく、市長銃撃というのはその言論如何に関わらず許されるべきではないが原則としてあり、次にその容疑者の動機や組織性が問われる。そこを「容疑者の動機がなんであれ」するのは違う。
 例えば、銃撃の背景が、裏金に対する怒りであっても、「この卑劣なテロを断じて許すことはできない」。むしろ、許しうるいかなる理由もないとすべきだろう。
 朝日の心性にはどこかにテロに対する甘さがあるように思える。