死ぬ間際の遠藤周作の心

 マルコ青年⇒明日また生きるぞ - 死ぬ間際の遠藤周作の心をガチで読んだよ
 まあ、そうかもしれない。
 ただ、もっとテレーズと罪の問題だったかと私は思う。実際には脳に病理がなかったかとも思うけどよく知らない。
 「わたしが・棄てた・女」については。
 ⇒極東ブログ: 遠藤周作「沈黙」の自筆草稿発見に想う
 名前だけリンク付きで言及した。
 あまり語りたくない。
 が、率直に言うと、この作品は完全に大衆作であり、文学的には失敗していると私は見る。ミツ(言うまでもなく罪)が主人公を結果的に救済している点だ。お涙頂戴風だが、この文学が描くべきは、ミツによって主人公の罪が救済されないことだった。しかしこの作品では結果的に救済を志向してしまった。
 このあたりの読みについては(駄作でしょあれ的)、ヌーンさんとかユキさんとかは言うまでもなく普通の文学的な感性として持っていると思う、という以前に、キモくて読まないだろう。
 それと。

信者なんだけど、彼は死ぬ間際宗教替えしたと思うよ。改宗とか回心とかって意味じゃなくて、信仰の変化、というか昇華というか。これはひょっとしてまだ誰も書いてないんじゃないのって思うね。

 タメの反論に取らないでほしいけど、遠藤の読者はほとんどが深い河のインド的なユンク的な意味については了解していると思う。ただ、カトリシャン的な読み手の言葉がオモテに出ているだけだと思う。
 「わたしが・棄てた・女」よりも、おそらく失敗作と評価されるかもしれないこれ、

cover
国境の南、太陽の西: 村上 春樹
 が罪のある感触を描いている。
 文学的な感性というのは文学者の感性とは違うし、批評家のそれでもない。ヌーンさんとかユキさんとかたぶんかなりたぶん弁当なんでゲとか言いまくるのではないかと思うし、私も言わせる。言わせることが私はすこぶる愉快だ。私は文学的な感性のある水準を持つ人は私を誤解しえないと確信している。もちろん、不愉快だろうし、馬鹿とか思うだろうが、文学的な感性というのはもうちょっと強い何かがある。(ただしこれはもっと醜態的な不幸感でもあるのであまり言うこっちゃない。)
 そのあたりはけっこうゆったりと確信しているし、ま、ダメなら、彼らがダメなんだろうと暢気に思う。そのあたりに超むかつく人もいると思う。
 マルコ青年にはそうした文学的な感性があるかどうかよくわからない。これは多分に生得的なものなのでないんじゃないかと思う。ただ、お互いキリスト教にやられたせいかメタな感性がある。これはこれでやっかいなものだし、普通は文学的な感性はメタな感性と同居しない。