はてなQより 過去をくよくよ振り返らず生きるには

 ⇒人力検索はてな - 過去をくよくよ振り返らず前向きに生きるのに心がけていることを教えて下さい。
 私の場合。
 どうも前向きに生きようと意識するのは、根本的に間違っているのでないかと、経験的に思うようになった。
 この問題は、一種の睡眠不足と類似なのではないかと。寝たりないと眠いみたいな。
 で、どうするかというと。
 くよくよ振り返るとき、その心を見つめるというか味わう。身体で味わうというか。
 すると、その時折になにか微妙な差みたいなものや、根っこみたいのがあり、それが、なんつうか、自然に薄れるまで待つ。雨がやむのを待つように待つ。
 なんとなく気分が変わるまで待つ。
 あるいは、ちょっと散歩したり、本屋に行ったり、飯食いに行ったりする。
 コツは気晴らしの本とかiPodとか持たないこと。瓶のなかに綿で詰めるように脳に詰める情報を持たないこと。ぶらりと、ぶらぶらと。だまって、しばらく。
 で、少し前を向く、ことが多い。というか、そうしてしのいでいる。
 あと、村上春樹の短編「プールサイダド」じゃないけど、35歳を過ぎたとき、人生は疑いようもなく半分終わったと思った。さらに来年私は50歳にならんとしているのだが、人生の大半は終わった。私は、無だった。
 で、この無というか、もうすぐ消えてしまう存在が何のために悩むのだろう、と思うようになった。
 なんというか、取り返しも付かないことは、もう私の人生で取り返しなんかつかない。
 若い日の恋愛とかとかとかはもう二度とない。
 もう二度とないんだな、と。
 季節が巡り、また秋かと思うけど、私が味わえる秋は、過ぎ去った秋の数より少ない。
 過ぎ去ったことはみんな終わってしまった。
 悲しいことがいっぱいあった。楽しいこともあったかな。
 で、くよくよと今の私は、過去の悲しみを悲しむのだが、その悲しみも、本当はもう終わってしまった。
 無を悲しんでいるのだ、私は。私は、今、過去を悲しむことでそれが無でないことを心で信じたいのかもしれない。あるいは、私の悲しみがそれが無でなかったとしたい虚しい努力かもしれない。
 終わってしまった悲しみをなぜ私は今悲しみ続けるのだろうか。
 今、過去が悲しい、ということは、本当は今を生きていないとき、悲しくなったりするのだろうか。
 と、くよくよと思う。
 一日、五回くらい。立ちすくみ、跪いて。(メッカを向いて、でもないが)。

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回転木馬のデッド・ヒート: 村上 春樹