私が価値観を相対化できない馬鹿であること

 これ⇒「フラット化」を自分に都合よく解釈する人々

 佐々木俊尚さんの発言を引用して id:finalvent さんが意味不明と感想を述べた、という状況。
(中略)
 佐々木さんや、あるいは(もう少し素朴な感覚として)花岡信昭さんが疑問を感じているのは、どんな言説も価値体系の外側から批判されてしまうような世界ではあっても、しばしば大勢がひとつの方向でワッと糾合する話題があるということを、どう考えたらいいのか、という問題だと思う。炎上の現場を見て私が感じる違和感は、参加者の大半が自分の正義を確信していること。たまたまその「場」において自分たちが多数派となったのではなくて、自分たちがその「場」で多数派となっているのは当然だ、と考えている様子なのです。
(中略)
 世の中にどれほどたくさんの価値観があるにせよ、特定の問題について対処の選択肢は多くない。もっと書けば、価値観の多様性はパチワークのような仕組みによるものであって、特定の問題をどう考えるかについて、無限のバリエーションはない。ここに「場」を支配する多数派が登場する理由があります。しかしそもそもなぜ、自分の主張を相対化しない(できない)人が多いのか。

 思想的に言えば、この状況は「どんな言説も価値体系の外側から批判されてしまうような世界ではあっても、しばしば大勢がひとつの方向でワッと糾合する話題があるということを、どう考えたらいいのか」ではない。それはむしろ、耐震偽装ライブドア問題などだ。きっこが煽動しているタイプの問題だ。この状況は違う。ネットのなかに信頼に足るかもしれないという人が呼びかけなければ、ただのありがちなバッシングの一例として消えていっただろう。そういうことはよくある。そういう状況ではない。
 この状況はなにか?
 私はこれを書いた⇒極東ブログ: オウム事件のころをまた思い出す
 (追記:極東ブログが頓死しているので。
     こちら⇒極東ブログ:オウム事件のころをまた思い出す
  よろしく。)
 徳保さんはお読みになられたであろうか。
 徳保さんもそうなのかどうかわからないが、佐々木さん、花岡さんなど言論で飯を食っている人が、あの状況の島田裕巳さんと同じ位置にいるとき、あの状況にいると「私」が知ってしまったとき、我々はどうしたらいいのだろうか? (飯を食っているという意味が通じるだろうか?)
 端的に言おう、価値を相対化しているお利口さんはオウム的なものから市民社会をどう守るのだろうか?
 あの時、国家が機能していなかったということを私たちは知っている。
 価値観の相対化ができない馬鹿者さんがしかしあることに気づいたとき、彼/彼女はその気づきから、社会(友愛の集団)に対してどうするだろうか。その気づき自身が責務と感じたとき、どうするだろうか。
 もうひとつ。
 私は先のエントリでこう書いた。

オウムが、あるいはオウムのようなものが公の場に手を伸ばすときそれを本質的に察知するのは、ある私人の傷の感覚ではないかと思うのだ。

 私はぶっちゃけフラット化とかお利口さんみたいなことを言うのは、私たちの市民社会に関係ないポストモダンだったか無害なフィールドされれば関心ももたない。私が関心を持つのは、持たざるをえないのは、この痛みの感覚が私を責めるからだ。
 今朝私はこういうメールをいただいた。石垣さんは私を指す。

 石垣さんは、残酷な人ですね。
 トリルさんは、日雇いで生計をたてていて、その数日分を費やして、取材することになったようです。
 みなさん、本人の意思なんでしょうが、たきつけているのは石垣さんのようにしか、思えません。
 失礼します。

 メールをよこしたのは私が親しいと思っていた人であった。また、その人も私を親しいと感じていたであろう。そして、このメールが、その親密さを質として私に痛みを感じさせることをよく知っているはずだ。知っていて、こういうメールが来た。私はこのメールを無視できる。無視すれば痛みはない。また、ビジネスでみるならそのコストを関心のある人たちのファンドでまかないましょうとすることできる。特定の人にコストを強いることが残酷ではありえない。残酷は親密性の質の感性のなかにある。
 だが、私は経験で知っているのだ。この痛みの構図のなかに、先の本質的な問題がある。
 徳保さん、この痛みはなんだろう?
 フラット化とか言論がどうたらではない。普通に生きている愛や友愛のなかに迫る本質的な問題ではないだろうか。
 
追記
 その後の追記を読んで⇒「フラット化」を自分に都合よく解釈する人々

私はこの備忘録では浮ついた話をしているので、価値を相対化しているお利口さんはオウム的なものから市民社会をどう守るのだろうか?という質問に強いて答えるなら、「法治主義に賛同する私としては、法の枠内でしか守れない、が答えです」といったところ。本気で言ってるの? と問い質されたら、「言葉遊びに決まっているでしょう」というしかない。しかしながら。

 よく読まれていないご様子。
 私はこう書いた。

 あの時、国家が機能していなかったということを私たちは知っている。

 いや、そうではないのかもしれない。国家が機能する範囲でいいじゃいか、と。そうだ、オウム的なものは国家にまかせろ、と。それが、我々の身近にすっと痛みの手を伸ばしているときも。江川紹子、うざかったな、と。