あられもない言い方は避けるが……

 ⇒CNET Japan Blog - 佐々木俊尚 ジャーナリストの視点:ネット世論の「拠って立つ場所」とは

 もちろん、ジャーナリストには責任がある――たしかにそうだ。自分自身もジャーナリストを名乗って20年近く活動してきた私も、そう思う。だったら、ジャーナリストを名乗らないブロガーには責任はないのだろうか? もし責任があるとすれば、その責任の度合いは、ジャーナリストと異なるのだろうか?

 あーあーマイク入ってる?あーあーそこが出発点です。この前文、すべて、いらね。「新明解国語辞典三省堂)によれば」なんてレトリック使って笑いを取るサービス、不要。

 フラットなネットの地平線の中において、ジャーナリストの言説とブロガーのエントリーは相対化されつつある。その相対化されつつある現状の中で、ジャーナリストとブロガーの責任の度合いは相対化される可能性はあるのだろうか?

 ブロガーはジャーナリズムのプロではない。(野田さんが仕事をしなければことの発端は見えなかった。)
 相対化されないってば。
 ってか、話の方向が違う。
 いまこの問題でブロガーが滑稽なまでに必死にジャーナリズムごっこをしているのは、プロのジャーナリストがいねーこと。これはオウム事件の時もそうだった。
 ブログの価値は、そこではないし、また、それらがクラスターを作る層がうんぬんではまるでない。ブログの言葉のなかに友愛と連帯を通してどのような意見のぶつかり合いと合意があるかが問われている。でだね、泉さんとかそのブログに地表に降りてきてないのだよ。
 今問われているのは、トリルさんを動かすようなブログの友愛の力なのだよ。

 責任を問うた者は、いずれみずからの責任も問われる。結局のところ、だれもアウトサイドに出ることはできない。アウトサイドに出ることができるのは、発言しない人たちだけなのだ。
 インターネットのフラット化の果てには、まだ広大な地平が広がっているように思える。

 私も意図的に韜晦に書くことがあるので人のことはいえないが、これ、意味不明。
 「誰もアウトサイドに出ることができない」はぁ?