文は人なりというが

 そうかも。
 なにが主張されているかということより、どういう文体で書いてあるか。
 ってか、文体というのが思考なり、表出された主張のメタになっている。
 で、文体というのは一種の雰囲気なんだろう。
 雰囲気ぼわーんというのがあって、それが文体になって、なんか主張のように見える。
 ブログでいい文章をいかに書くかとかあるが、結果論的に、まずブログには文体があるのだろう。
 そして、その文体がどういう偏差をもっているかがブログの主張より重要なのだろう。
 メディアはコンテンツであるというのの応用かもしれない。
 じゃ、ネタは?
 ネタというのはある。ネタというのは文体で消化される。
 それとあとは文化戦争というかカルチャー・ウォーの概念を入れれば、とりあえず、ブログっていうクラスは定義できるのではないか。
 ああ、あと空気っていうのはあるか。
 ネタ、空気、文体、カルチャー・ウォー、このくらいかな。
 ネタは次元には入らない。
 空気がタイプ分けしづらい。ネタは空気と関係がある。
 空気はもしかするとカルチャー・ウォーの従属概念かも。
 すると。
 最初にカルチャー・ウォーのカテゴライズがあり、そこに空気があって、たまたまネタが投入されると、それぞれの文体でアウトプットされる。
 それから、ぶくまとかで増幅。