読売 5月28日付・編集手帳

 ああ、自分の野暮さがOTZだが

楓ちゃん事件の後も、子供が犠牲になる事件が絶えない。「惻隠(そくいん)の情」という言葉も聞かれなくなった。土師守さんの思いが通じない人間が、増えているのではないか

 うーむ。
 ま、なんだこれというか。
 しかし、な、というか。
 字引⇒そくいん 0 【▼惻隠】 - goo 辞書

 そくいん 0 【▼惻隠】
かわいそうに思うこと。あわれむこと。
「―の情」

 字引が言っている以上しかたないか。
 で、なんでこんな用例が昨今でてきたか?とネット見るにこれか。
 これ⇒藤原正彦「日本人よ、惻隠の情を思い出せ」 - 電子書籍はeBookJapan:週刊ポスト
 藤原先生じゃ、古典を読めというのもなんだしな。
 ネットを見ると惻隠の心は仁の端なり

 「惻隠の心」とか「惻隠の情」という熟語は、難しい言葉のようですが孟子の「性善説」とは別に「あわれみの心」という意味で広く常用されているようです。

 というわけで、このサイトはある程度わかっていて、なのに話は一般的な解釈でよしとして話を進めている、ってか、その先はけっこうめちゃくちゃ。
 原典は 孟子 公孫丑・上

孟子曰,人皆有不忍人之心。
先王有不忍人之心,斯有不忍人之政矣。
以不忍人之心,行不忍人之政,治天下可運之掌上。
所以謂人皆有不忍人之心者,今人乍見孺子將入於井,皆有怵綃惻隱之心。
非所以內交於孺子之父母也,非所以要譽於鄉黨朋友也,非惡其聲而然也。
由是觀之,無惻隱之心,非人也。
無羞惡之心,非人也。
無辭讓之心,非人也。
無是非之心,非人也。
惻隱之心,仁之端也。
羞惡之心,義之端也。
辭讓之心,禮之端也。
是非之心,智之端也。
人之有是四端也,猶其有四體也。
有是四端而自謂不能者,自賊者也謂其君不。
能者,賊其君者也。
凡有四端於我者,知皆擴而充之矣。
若火之始然,泉之始達。
苟能充之,足以保四海苟不充之,不足以事父母。

 孟子が惻隠の心を解するに「今人乍見孺子將入於井」とするところに
 おっと、以下略。
追記
 急用から戻る。
 孟子は惻隠の心を解するに、幼児が井戸に落ちそうになるのを、おおっとぉ見ちゃいられないって思う間もなく、子供が井戸に落ちないように救うでしょ、そのココロ、というのだ。
 哀れむというのとは、ちょっと違う。
 やむにやまれぬ、言語以前の心情、というか、本能的な人間の原理性、ってか、心のアルケーに近いものとして考えている。
 日本人は、というか、日本史の言葉の歴史的には、非国民という国民や、非人という人という範疇を作りそれを規範として考えていくが、孟子の場合、惻隠心がなければ、それは人間ではないという、ただそれだけのこと。
 それを持てぇ!とかいうと、孟子の哲学の根幹が成立しなくなる。それが前提としてあるのが人間なんだ、そう人間を考えて、政治はいかにあるべきかというのが孟子の哲学。