観測問題とか局所性の問題とか

 odakinさん、ありがとうございました。
 以下、メモです。議論スタートとかそういう意図ではありません。
 
 参照⇒欣印日記はてな - 補足
 

odakinさんからいただいたもの

 gzをほどいたところ以下の4点でした。
(1) EPRのオリジナル
(2) Everettのエッセイ
(3) EPRへのAlain Aspectらの反論その1
(4) EPRへのAlain Aspectらの反論その2(検証モデル)
 展開(解凍)ミスはあるでしょうか。
 全文、オリジナルなので、ビックリしました。これらの原典を私は読んだことがないので、この機に読んでみようと思います。
 それと、原典も読んだことないのに、議論してたのか、アホー、というなら、それは了解。
 ちなみに、私はニュートンのプリンキピアを読んだことがありますが……という洒落はさておき(本当に読んだが)、原理的には、自然科学の場合、原典を読まずして議論ができないということはないかと思います。社会科学はその中間的、哲学は原典が重要。
 で、その上でなのですが、これらは一応町田茂などの解説書などで読んで考えています。町田茂なんてダメダメというのはあるのかもしれませんという留保はします。
 

局所性の問題と観測問題は別

 という指摘をどっかでいただいたように思います。
 ある程度了解してます。
 以前、あさんとの議論のときは、観測問題ではなく、局所性の問題でした。
 局所性の問題と観測問題は別、とはいえ、観測前=確率的存在、観測後=確定的・因果論的存在、とは言えるのではないでしょうか。それが言えないなら、ふりだしに戻り、コーヒー5杯。
 観測前=確率的存在、観測後=確定的・因果論的存在、とは言えるなら、その遷移(仮に言うのですが)は、観測という行為の介入による、つまり、観測が影響すると言える……ということになります。
 ほいで、私は、以前のあさんの議論でも展開したのですが(誰も理解したという意見を聞かないのでトンデモ率高そうですが)、観測前=確率的存在、観測後=確定的・因果論的存在というスキームが間違い。これは、時間・刹那と確率論の誤解から起きるという哲学を珍解していたのですが、すごく簡単にいうと、この刹那=私がいる刹那、世界は突然にして因果論的に現れ、私なき世界は確率論的かつ非局在的にある、というものです。ま、このあたりの私の言い方が、やってらんねートンデモ、でしょう。
 

単純な疑問

 ベルの不等式が破られているからといって、一個の素粒子が全宇宙に偏在している事にはなりません。前回の解説および折詰の EPR と実験の論文を読んでみてください。finalvent さんなら普通に読んで理解できると思います。質問があれば質問してくれれば答えます。

 その質問の前に

実際に非局所的に ¥Psi¥rightarrow¥Psi_n という遷位がいきなりおこっている、アインシュタインではなく確率解釈が正しい、ということが実験的に示されたわけです。

 というのは、普通のEPRへの反証であり、局所性は否定されたということですよね。
 で前に戻る、と。
 原理性が否定されたのだから、「一個の素粒子が全宇宙に偏在している事に」なるのではないでしょうか?
 そんなの論文読めばわかる……ということでしょうが、繰り返しますが、ベル不等式が破られた=局所性は否定された=一個の素粒子も全宇宙に偏在、というのは単純なことではないでしょうか。
 で、ここでややこしいのですが、私ことfinalventは「一個の素粒子も全宇宙に偏在している」とは考えないんです。それは確率論と刹那論の誤解によるのだと考えるわけです。そのあたりが、大森的です。大森がそう考えたわけではないですが。
 
 で、うまくかみ合うでしょうか?
 せっかく論文送ったんだから、あれ読めばわかるじゃないかというのがodakinさんの心情だということはわかりますし、この気に読んでみます。で、読んでみて、なーんだ、そっかぁ、町田茂とかデスパーニャとかもばっかだなぁ、で終わるかもしれません。
 というわけで、うまくかみ合わせようとは思ってません。
 途中報告的にということで。
 

参考

 「「量子力学の反乱」―自然は実在するか? 最新科学論選書: 本」
 なお、図18aは釣り鐘形状のグラフです。

 ラオホの実験は室内で行われたが、広がりの大きさを制約するものは原理的には何もない。ホイーラーの宇宙規模の遅延選択実験でもこれを利用して、非常に狭い幅の波長だけを選んで観測することにすれば、1個の光子の空間的な広がりはいくらでも大きくすることができる。片方の光を光ファイバーで貯めておく以外に、この手段も併用すれば、干渉を観測できる可能性はさらに大きくなるわけである。ただし、波長の幅を狭くすればそれだけ光の強度が弱くなるから、その点では観測の困難が増すことになるだろう。
 こうしてみると、「1個の粒子の広がり」という言葉も、簡単ではないことがわかる。たとえば、1個の電子を考えるとすると、それは一定の質量、電荷、スピンをなどをもっている。その場合の1個というのは、質量や電荷などが1個分の値をもつという意味でははっきりしている。ところが、同じ1個の電子の空間的な広がりに注目すると、それはもっと複雑な意味を持っている。われわれが粒子の広がっている空間でそれを観測すると、粒子はある確率で見いだされる。その確率は波動関数の2乗だから粒子の広がりは波動関数の広がりで決まることになる。その波動関数は図18aに示したような形をしており、すべての波長の成分を重ね合わせたものである。それはいわば、位置の測定の仕方と波長とは無関係にしたもの、あらゆる波長成分を測定するようにしたものに対応している。しかし、位置の測定の仕方はいろいろ選ぶことができる。たとえば、測定する波長をある範囲に制限すると、粒子の位置、つまり粒子の広がりが大きくなる。そして測定の仕方そのものはどれも同等の資格をもち、どれが”本物”ということはないから、粒子の”広がり”も当然ながらどれも本物ということはない。それこそ測定の仕方によっては、粒子の広がりは無限小の1点から無限大、すなわちこの宇宙全体にまで広がり得るのである!
 実際、素粒子の広がりはどの波長で見るかによって違ってくる。1956年頃、スタンフォード大学のロバート・ホフスタッターのグループは、陽子と中性子の広がりが波長によってどのように違うかを測定し、この業績によってホフスタッターが後にノーベル賞を受けた。また、天文学の分野でも、可視光線による観測の他にX線天文学や赤外線天文学と呼ばれる分野が急速に発展し、銀河やクエーサーなど遠方の天体の中にはX線や赤外線で見る形と可視光線で見る形が非常に違うものが珍しくないことがわかってきた。
 1個のミクロの粒子は、すべての波長でまとめてみれば図18aのように局在していても、ある波長幅だけで見ればその広がりはずっと大きくなる。そして、波長を1つの数値に限定すると、その波は空間全体に、宇宙のすみずみまで一様に広がってしまう。このような無限の空間全体に広がったものが”1個の粒子”だとするのは、常識ではとうてい受け入れがたいことかもしれない。しかし、量子力学によればまさにそうなっているのであり、ラオホはそれが正しいことを実証してみせたのである。