司馬遷の書いた「史記」というのは歴史じゃなくてイデオロギーなんすけど
「異論を明記して歴史にゆだねる」のは、民主主義政権下でなくても実は例がいくつもある。司馬遷がまさにそうだったではないか。中華4000年(もっと長いらしいがキャッチフレーズとして)の歴史はついぞ民主主義を生まなかったが、歴史家は数多く生まれている。崔杼弑君を身を持って実行できるbloggerがどれほどいるのだろうか?
中国の歴史は実質的には明朝以降としていいだろうと思う。史記の描く漢代ですら、事実上、滅亡した。っていうか……あまりいうとやばいけど……漢民族って……。
というわけで、現政権の異論を後代に渡すということをまるでしないのが中国の歴史。ってか、旧唐書と新唐書の存在を考えてごらんなさいな。中国にとって「歴史」がなんであるか片鱗がわかると思う。そして、それこそがまさに民主主義がアーカイブとして異論を残す歴史の対極にあるものなのだ。
崔杼弑君とかも歴史の真実という文脈じゃなくて、イデオロギー的なものですよ。
ブログなんてものは、水の上にパンを撒くように書けばいい。そんだけ。