『若者の人間力を高めない非国民運動が大嫌いだ宣言2.0』2005年10月30日

 
 「だめ連」なんだからだめでいろよという世間の思惑もものともせず、「だめ連」的圧力団体っぽいPAFFは今月10月26日、「若者の人間力を高めない非国民運動」なるものを発表した。直接的には10年来変わらない彼らの「だめもいいじゃんのはずなのにやたらと人間とやらを連呼する」っぽい宣言のなかには、「人生」や「友人」や「恋愛」や「生」という言葉があふれている。やれ、「人の生とは労働だけではない。友人と談笑したり、映画を見たり、読書をしたり、音楽を聴いたり、旅行をしたり、恋愛をしたり、生とはもっと豊かなもののはずである」うんぬん。
 まるで人生を有意義に生きないことがこの世の極悪であるかのような脅迫にさらされた、なんとしても若者をこうしたドグマに落とし込もうとするイデオロギー中心主義ともいえる執念めいたこの文言に、私はうす気味の悪さを感じざるを得ない。ある種の無気力や働けないことは個人の問題でしょ、人間なんて救いようもない孤独なもんでしょ、うぜーよ君たちってことが徹底的に貶められる。
 そこには、90年代半ばから、個人の生き方の問題でしょうざうざ言わんでよってってことを、資本の要請によりなされた雇用の流動化の結果もたらされた構造的な我々若年層の雇用問題としてすり替える醜悪な詐術が見え透いている。さらには、ここで宣言されている人生賛美の文言の裏面として、社会構造的にもたらされたフリーターや野宿者、それにニートと呼ばれる人たちの存在を代理の社会的正義と欺瞞的に規定して他者を倫理的・道徳的に抑圧する思想があるのだ、と私は明確に指摘しなければならない。
 そして今日、この運動の一環として「若者自身」を参加させ、とりこむ形で「だめ連」的な運動とかメーリングリストとか実施される。ブログでも書いて糞トラバ百発受けろってーの。なのに、この活動を主催する彼らの頭でっかちで小うるさい小オヤジもどきが、「アルバイトなどの非正規労働はまさに体制側の利益のために作り出されてきたし、これからも増えていく傾向にある」とか吹くわけだ。彼らはそういうものを「立派な」イデオロギー信奉者に変えてしまおうとしているばかりではなく、ただそのままの貶められた状況の中とかぬかして、そこに人生の喜びだとか恋愛だとかを無理やり望せようとしているのだ。そうすることで当然彼らの利益も上がるのだから、こんなせこい集まりまで作って頑張るのもうなずける。
 しかし、人の生とは理屈だけではない。一生懸命仕事をしたり、人を陥れてその報いに自分の人生の末路に転落したり、大金もってからテレビ局を買ってみようかなぁとかほざいたり、ひきもこって、はてなブックマークを稼ぐブログのエントリを書いたり、幼い子どもを残してくも膜下出血に襲われたり、生とはもっとわけのわかんないもののはずである。しかし、これらは必ずしもある理念の結果としてもたらされるものではない。一部の弁のたつ香具師とか偉そうなことを吹くやつらに生の意義の理解を強要される覚えなんてさらさらないのだ。それに、「我々」なんておぞましいこと言うなよ。「我々」なんてねーよ。それに前もって言っとくけど「絶望しているな」とか言うな! 絶望もまたうぜー傲慢の形態だし(一人の人間が世界を裁けるわけない)。
 はっきりしておきたいのは彼らの望みと私の望みはまったく別のところにあるということだ。私が彼らの望むような方法で他者を「支援」したりすることはないし、そうする中で無為な思念のすり減りの連帯に喜んで入っていくこともない(日々無理やりつきあわされるとしても)。「我々はもっと働くのではなく、もっと自由に生きるために集まるって」なやつらはほっとけ。っていうか、そんなの近寄るなよ。もっと孤独になれよ。うんと孤独なった一人の人間だけが一人の人間を愛する可能性を得るかもしれないからだ。
 ここに私は、この「若者の人間力を高めない非国民運動」でいわれる「人の生」が押し付けの人生の意味づけにすぎず、連帯の名のもとに人を器官化していくものであることを喝破し、はっきりとこういってやろう。
 
「大きなお世話だ! 余計なことすんじゃねー!」
 
finalvent
追記
 2005.10.31 9:45 誤記、直し。