大衆は馬鹿だと

 ほざく香具師大杉。
 なこと言うまでもないと思っていたが。
 実際言うまでもないので、おわり。
 ってか、じゃ、っていうと、うまく説明できそうにもないので、
 じゃ、それでいいよとか言いそう。
 ま、実際、大衆は馬鹿だとか言うのはまったく無駄なので、ほ・ざ・け・よ、でもある。
 吉本の大衆の原像論のようなものが思想の視座から消えつつあるのだろう。
 その、大衆の原像ってなによ、とか、解説が必要になる。
 それが、なんだか、禅の公案みたいだ。
 ネットをみたらこんなものがあり。
 ⇒吉本隆明鈔集i版1983年

 大衆の原像というのを、こう言ったらわかってくれるかな。高度なところを頂点として、知識の秩序とか系列とかが全部を覆っているイメージを想定するとします。僕にはどうしてもどこかに知識の空隙、あるいは亀裂みたいな空間を生んじゃって、そこだけは知識の糸が覆いきれない個所が存在すると思うのです。空隙を残さなければ、知識はいくら発達しても世界を覆ってしまうというふうには、ならないんだと考えると、その空隙が、大衆の原像というものに該当する気がするんです。そこでは、知識でないものが息をついている。その空隙は不可欠だという気がするんです。
 自分のこととしても頭のてっぺんから足の爪先まで知識を充填するイメージを自分で想定できないのです。どこかぼやっとしちゃっているとか、休んじゃっているとか、ダラッとしているということなしに、知識が自分の身体のなかに存立しうると、どうしても思えない。感覚的にいえば、ダラッとしている部分が、たぶん僕のなかにある大衆の原像に該当するんです。個のなかでも、社会のなかでも、それはありうるのではないのか、そこから見ていく見方が、知が収斂していくことに対する、歯止めになっている。
 大衆の原像というのは、譬喩としていえば、実体として存在しない情況でも、世界を見る見方に対して足を引っ張る要因として、ありうるんではないかと思います。
(「文藝」1983年3月号掲載「サブ・カルチャーと文学」笠井潔川村湊との対談。「不断革命の時代」1986.7河出書房新社に収録された)

 吉本になれた人間なら、あ、そうかね、で終わり。
 この十年、吉本がトンデモ化したのをついてきた人間なら、つまり、大衆とは、内臓=感情=情感=愛、とか言いそうになる。
 知は愛することはできない。愛はつねに大衆のなかにしか存在しない。というのは、我々人間が青春期を経て生きるなかで、言語化されずに体得されうるものであり、というか、それを体得したありかたが、コミンテルン系の左翼との一線を引くものだった。自分の存在が大衆の愛に不可避に関連付けられているありようが吉本的な課題だった。
 ま、そういうものがなくなったのだ。
 大衆を愚弄するがいいよ。愛がないとほざけばいい。救われないと言うがいい。
 ま、なんでも、あり。