これはネットのというかブログの都市伝説だったのだろうか

 ⇒ITmediaニュース:「ネットに匿名性は不可欠」――総務省
 いつくか関連話題をぶくましたとは思うが、私は、別に気取るわけでもないが、匿名・実名論にはあまり関心がない。
 先日の実名推定罵倒者さんも自分のブログをもってそこでやっている分には、よほどのことがないかぎり、というか、先日のコメント罵倒レベルなら、ご自由にどうぞの部類だと思う。(実名がばれて撃沈というのはないです。それに現状ではGoogleひいて憶測しました以上でもないし。)
 単純な話、こっちに来ていちいち嫌がらせなコメントはやめちくれとは思うし(このコメント欄での責任者は私ということになるので訴訟マターがこっちにかぶさられるのは困る)、今回の例では、語りたい部分は稚拙な罵倒の陰に隠れていたようにも思ったのだが、そのあたり、ちょっと買いかぶりしたのかもしれない、という意味では、自爆かな、私が。
 名前というのは、それが先行しているというより、その名前にリンケージされた発言や行為が重要なんで、私の実名にリンクされている行為はそれほどブログや日記とは関係ない。先の罵倒者さんなどは、実名が実体、finalventは隠れた匿名の表象というモデルなのだろう。しかし、実際は、実名には実名の対応、finalventにはfinalventの対応がある。率直に言って、finalventの言説は結果的にかなりの量になっているのでそれをもってfinalventを定義しても充分になっている。その外部にfinalventはない。(しかし、厳密にいうとたとえば愛とかはそこからこぼれるだろうし、たぶん憎しみというのは愛の変形という意味では、憎悪がまさにそこに集約されるのは、わからないでもない。ただ、私は日記やブログを通して友愛は求めるけど、愛は求めない。愛は私の人生では終わっているから。)
 そういえば、finalventは自分語り病気と思われているかもでもあるけど、ま、そう思われてもいいのだけど(人によってはきもいだろうが…読まなきゃいいが)、それはかなりちがうよというのも野暮だが、ま、野暮な話はすまいなので、それ以上ふれない。
 個人的には、この日記など、マルクス・アウレリウスの自省録みたいな感じがしている(レベルは別だが)。彼は、あの自省録を後世に残すべく意図したかはわからないし、彼の公務の裏側を後代の人に知ってもらいたかったのかもしれないが、実際の自省録から見えるのは一人のあまりに赤裸々な思索者があり、私が彼を愛するのは歴史に現れる公務ではなく、その内面だ。
 彼は、あの自省録をギリシア語で綴っている。日常彼が使っていた言葉ではないのだ。
 もしかすると、古典ギリシア語の賢人と語りたかったのかもしれない。

自省録



著者:マルクス アウレーリウス 他

販売:岩波書店

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媒体:文庫



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