意識とは迷いであり、愛の認識とは虚偽である

 と、また偉そうな話をしたいわけでもない、と照れておく。
 生物は行動の場にあって、reflectiveな意識を持たない、というか、行動の意識のなかに行為の純正のなかに収斂されていくものだ。このあたりはなかなかうまく言えない。知行一致(知行合一)というのは、知と行を一致させるというものではない。行の内在のあかに知が純化される状態を指している。
 これは、愛にも関連している。我々は、誰かを愛するとき、ただ、愛と行為は一致している。愛せよというのは、ありえないのだ。愛せよとは命じるものであり、命じる者と命じられる者の分離がある。だが、そのような機械的な遂行のなかに愛が存在しないことを我々は直覚として知っている。
 あるいは、話がうまくまとまらないが、こうも言える。
 選択とは自由でない、と。
 選択とは迷いでしかない。
 自由の意識、人間、その行為において、いかなる選択もない。自由はただ、その自由の発現の行為のなかに純化されて、それはただ、一つの真っ直ぐな道を進むものである。
 どちらに進むべきかというとき、人は、自由を実は失っている。自由はいかなる躊躇いもないところに起きる。
 と、言葉にすると屁理屈のようだし、また、それは、機械的な動作でもそのように言えるということになるだろう。
 そこは難しい。
 致良知という問題でもある。