善悪の認識と行動について…

 と難しい話をするわけではない。
 私は、善悪の認識と、行動に、なにか、すぱっとふっ切っているものがある。
 というか、善悪の認識という認識と、行動という形式の認識があるのだというふうに考えている。
 実際上の生活の場では、つねに後者がだけが問われる。そしてその後者の行動としての認識は、まさに、瞬時に、いかなる迷いもなく行われる。
 そこに迷いがあるとき、行動にゆれが起こり、いわゆる善悪の認識の問題が起こる。
 というか、つまりは、それは身体性の分離だろうと思う。
 行動という認識がいかなる迷いもなく遂行されればいいのか、と、いえば、狂人もまたそうであろうし、およそ、他者の行動への言葉の問いかけも無意味になるのだろう。
 が、この点についても、私は、基本的に、やはり行動の立場ととる。というのは、認識ではなく、ある種の情というか、熱意というか、その内在のなかに行動の認識が包含されるように思う。
 何が道徳であるか?
 我々はどのように発言しうるか?
 それらと行動(という認識)にはなにか抜本的な乖離があり、自分はいつのまにか、陽明学というか禅のような立場に立っている(それはある意味で超越であるのだろう)。