共同幻想性と貨幣

 吉本隆明については、ある意味、もう過去の人としてもいいのだと思いつつ、自分がそこから影響を受けた部分を、吉本のコンテキストから切り離して、再定義しつつ了解し、かつ、それを公開の言葉に置き換えていかなくてはいけない。「対幻想」なんていう言葉が使えると思った私は甘ちゃんだったのだ。と同時にどれほど吉本に依存してしまっていたことか。しかも、今や状況は、理想的な形での対幻想がモデル化しづらい。
 この間、正直に言うと、国家と社会の関係が自分の思想のなかで矛盾していることを痛感した。私が吉本読みを始めたのは、工場労働者に自分を置いてからのことだ。そしてその選択には吉本は関与していない。思想的な背景はシモーヌ・ヴェイユだった。後に、吉本がヴェイユに接近するのことに奇妙な、内的な必然性を感じた。ま、私のことなどどうでもいい。
 吉本の共同幻想は国家幻想でもある。ただし、現状の理論では、古代国家なり、人類史が国家を形成する原理性として捕らえている。生成的にキーとなるのは、当然ながら、インセスト・タブーだ。国際的にはレビ・ストロース的に見るのが正しい。橋爪などは、吉本とレビ・ストロースとの違いを気にしている。が、私は違いはないのではないかと思う。これは、叙述の方法論の差ということだろう、かなりは。
 人類が共同幻想を打ち立てるのは、おそらく、人間種に近い生物から次いでいるものであり、普遍経済的な意味で、生物全体に見られるものだ、という言い方がポランニ兄弟的で難解だが、ま、よしとしよう。
 私の理解では、共同幻想が人間種に発生するのは、自然であり、それがどう幻想域で了解されるかということが吉本の労作だった。
 が、吉本はそれを解体の契機として語っている。だから、当然、そこでの、つまり、吉本の文脈での「自然」で言うなら、共同幻想というは不自然な外在力になりかねない。多くの吉本主義者がそう理解する。そう理解するのはわかる。
 だが、自然性はむしろ、共同幻想を作り出す側にあり、むしろ、吉本ような思想の営為が共同幻想を知の対象化するところに意味がある。と、まで言うのは難しいことはわかる。というのは、吉本はこの先に、どう見ても対幻想的なアフリカ的なるものを想定しているからだ。そこには、共同幻想が生起しない人類史の幻想段階が想定されている。
 私は、そう、ここで吉本と袂を分かつしかないように思う。そういう人類史の意識の発生段階はない。共同幻想性は生物種としてしくまれているのだ、と考える。
 ポランニ(カール)は、そのように展開はしないものの、普遍経済学として、「富」を想定し、それを、互酬、王による再分配、市場と見た。マクロ経済がどれほど理数系を志向し偉そうな自然科学を装っても、所詮、市場と再配分論の枠でしかない。
 ポランニはこの3つのありかたを等しくタクソノミックに見ているふしもあるが、原理的には対幻想的な互酬、共同幻想的な再配分というふうに見ていいのではないか。ただ、互酬は、実は共同体間のことかもしれない。
 話が交錯したが、そうした「富」の普遍性と貨幣制は共同幻想と関連を持つ。ここには、ある種の公正や正義が潜んでおり、個人幻想=個体意識を調停する機能を持つ。
 あ、そうか。普遍貨幣とは、個体の側の意識の反映なのだ! つまり共同幻想というのは、つい、ある神なり、殺傷権力を担う幻想性として他者化されるように思いがちだが、それは、個人幻想の領域のなかで貨幣的な呪縛的な魅惑的なものに転化されるのだ!!!
 すると、いわゆる富を再配分する王としての共同幻想性とは、むしろ、そうした富への支配として現れる。
 うーむ。
 当初の国家と市民の話からそれているが、このあたりにも鍵がありそうだな。