7月1日、月曜

 7月になり、今年も半年が過ぎた。この半年はいつになく早く過ぎたように思えた。
 昨日、ブログのメンテナンスをした。といっても過去ログの整理だが、1年間近く放置していた。過去ログのアーカイブはタイプパッドなので自動的にもできるのだが、自動のアーカイブはだらっとしているので、記事毎のアーカイブは手作業になる。あと、サイドバーの書評リストなども更新した。手間がかかるわりに見た目にはたいした変化はない。
 一昨日の筋トレの残りは少ない。まだ負荷が足りないのだろうな。意外と基礎的な筋力が生き残っていたのだろうか。
 昨晩は、テキサスホールデムをやって勝った。勝ったの初めてでないかな。

時事メモ

Government workers deserve to get their bonuses - The Washington Post

 公務員のボーナスの話題。日本の3.11での努力も報われたとかある。

Housing finance reform is off to a promising start - The Washington Post

 ファニー&メイなどの金融改革の話題。

FT:Welcome to Croatia

But accession shows need for stronger defence of EU values
クロアチアEUに加盟。

FT:EU banking union

Europe’s messy compromise is still a mark of progress
EUの銀行問題。

FT:Enlightened genetics

UK leads on anticipating controversial technologies
この話題⇒ミトコンドリア病治療を含めた人工授精の倫理的課題: 極東ブログ
 問題はあるが大切な技術だというのがFTの論調。

Egypt: a time for street wisdom | Editorial | Comment is free | The Guardian

 エジプト問題。ガーディアンも西側に横並び。

メモ

 目立った話題はない。

1.VII. Distortions of Miracle Impulses

 かなり難解な節だが、これで第1章が終わる。
 "physical impulses"とあるのは、当初、性的な衝動となっていたもをワプニックの提案で書き換えた部分だと思われる。この節の規定には、性的な衝動に近い、なにかがもとになっていたことも難解さの一部だろう。
 節の後半は、畏怖(awe)の言及があり、これもおそらくテキストを書きだしたころのヘレンの恐怖心との関連があるだろう。Acimが開示されるころヘレンにはかなりの超自然的な啓示の体験があり、そうした関連もありそうだ。
 第1章はいろいろな意味で、Acimにおいてもっとも難解な章なので、なんども立ち返ることになるのだろうが、全体として啓示と畏怖の関連では、超自然的な含みがありそうにも思える。

「Healing the Unhealed Mind」、読んだ。

 日本のAmazonでは販売されていない。以下は書影のみ。米国Amazonで購入した。文庫より少し大きめの小さい本で、薄く、さっと読めるかと思ったが、けっこう普通の書籍近い量の内容があった。

cover
Healing the Unhealed Mind
 ⇒Foundation for "A Course in Miracles" Bookstore - Healing the Unhealed Mind
 表題から受ける印象は、心身のヒーリングについてのAcimの話題である。そのあたりを期待して読んだが、たしかにそうした話題に配慮されてはいるが、Acimでは肉体は存在しないので、基本、ヒーリングは心の癒やしに限定され、また、Acimでは病は存在しないので、それがなぜ存在しないかという、やや抽象的な議論になっていく。
 前半はテキストやマニュアル、祈りの歌の解釈というか、簡素に書かれているが、Acimの中・上級者向けの神学の様相をしている。後半は質疑になり、特に限定されたテーマでの質疑でもないかと思ったが、終わりのほうの獣医との質疑はかなり白熱したものがあり、読んでいて、感動というのでもないのだが、Acimの全骨格の愕然と見えてきた感じがして、ああ、読んでよかった思えた。
 Acimのロジックからして当たり前なのだが、ワークブックでもそうだったが、なんども無罪が説かれ、罪の裁きを怖れるな、というの繰り返されるのだが、私などは、基本、キリスト教神学を学ぶときですら、原罪はないし、罪というのも人間の根源的な関係性の言いに過ぎない、として、自分に帰着する罪の感覚があまりない。そのあたりは、これはヘレンや西欧クリスチャンにありがちな罰する神への中和説教なんだろうなと高を括っていた。が、どうもそうではない。
 ニーチェなどを通して、ルサンチマンというのが精神の病なのだというのはわかっていたし、この他者や社会、世界への処罰欲といったものが人間精神を腐らせているというのはわかっていが、それでも、自分にはかなりきついトラウマのようなものがあり、被害感は避けがたかった。
 が、この被害感、あるいは自分がどうしようもなく傷つけられてしまったというつらい感じは、結局のところ他罰であり、他者・社会・世界を自分に害を与えた悪としてとらえていることであり、その上で、私は「赦し」をAcimから学んでいた。
 だが、どうもそういうことではない。ワプニックの講義でああそうだったのかとわかったのだが、被害・トラウマ・傷つけられたという心の痛みをもっている限り、他者・外界を処罰している。罪に定めている。他者・外界に罪を投影しているわけで、これは罪が見えているという意味で、内在的に「罪」を抱えている無意識的な抑圧の表れだった。Acimが語りかけていたのは、この部分だったのである。ああ、そうだったのかという愕然とした感じがあった。他者・外界を「赦す」というのが、自己の深奥化している「罪の信念=傷」の解体になるわけだ。
 というか、これがようするにAcimの究極的な癒やしの構図なのかと思った。
 こんなこともわかっていなかった。
 というか、ぼんやりとわかってきていて、その罪の無意識的な内在が、がつんとわかったわけではない。というか、自分が傷つけられていなかったといわれると、それはあんまりですよと泣きたくなる。が、Acimがいうのはそういうことだし、なぜ、Acimで贖罪(atonement)が出てくるかというとそういうロジックだったのか。
 自分が抱えているトラウマによって自分が壊され傷つけられたと思っていたが、これは逆で、ここが自我の最終防衛戦線だったのだろう。
 これが壊れて、僕の自我はもつんだろうか?とも思った。
 でも、この世に生きているうちに、完全に癒されるということもありそうだなとも思った。というか、それをワークブックでなんどもなんども問われていたことに、なんか今頃気がつく。