日経春秋 春秋(11/16)

かつて親の職場と子供の距離は今よりずっと近かった。農作業の傍らで子を遊ばせる。商店では店番を任せる。住宅街の町工場に勤める親はわが子に何かあれば「ちょっと家に帰る」ことができた。工場は大きくなり、会社と住居は離れ、小売店のチェーン化も進む。効率は高まったが、融通は利きにくくなった。

 微妙かな。

日経社説 ネットから個人情報を守ろう

 Googleマップの設定とストリートビューは別、なので話が混乱。

 一方、利用者も注意が必要である。最近はネット上で友人と情報交換するサービスが人気だ。日記代わりにネットを使う若者も多いが、情報が漏れる危険性を絶えず忘れてはならない。学校でも今後はネットの使い方を教えていく必要があろう。子供のほうが詳しいといわれるが、教師に対する教育も必要だ。今回の出来事はそれを端的に表している。

 情報が漏れるというけど、実はこれ、いわゆるオールドメディアではだだ漏れだったというか、だだ漏れに構造化された産業があったりもした。まあ、問題はそう簡単ではないよ。

毎日社説 社説:中期プログラム 消費税上げは前提ではない - 毎日jp(毎日新聞)

 一瞬標題に驚いたが、中身は……。

 09年度からの基礎年金国庫負担引き上げなどの財源としては、定額給付金の財源にもする財政投融資特別会計金利変動準備金を充当する方向になっている。ただ、この準備金は財投残高の減少にしたがい減っていく。政府は、当面、こういった「埋蔵金」にかなり依存するだろうが、それは安定財源とは言い難い。
 中期的に、消費税のみならず、個人所得税法人税など基幹税の位置付けをどうしていくのか、国民に提示することが政治に求められている。消費税を上げれば年金財政は安定するといった話ではないのだ。

 こういう動きを見ていると、経済の動向というのはある種の必然のようなものはあるなと思う。端的にいえば官僚主導的な経済運営の絶対的な限界が比較的見えやすい時代になったのだろう。

読売社説 金融サミット 危機克服へ役割が増した日本 : 社説・コラム : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

 アイスランドなど、危機に陥った中小国向けのIMF支援が相次ぎ、IMFの機能充実が緊急課題となっており、各国は日本提案を前向きに評価した。
 IMFの改革については、これまでの米欧主導を是正し、新興国の発言力を増大させるべきだとの指摘がある。危機を未然に防ぐ早期警戒機能の強化も含めて、こうした課題を早急に解決することが肝要だ。

 日本という国はIMFだとWTOだのの錦の御旗を掲げるほうが得策だし、IMFについてはどうせ動けないドルを拠出したほうが国策にかなう。
 ただ、このカネなのだが、おそらく実質はパキスタンかな。

 「強いドル」を掲げる米国に対し、サルコジ仏大統領は、ユーロを念頭に、「ドルは唯一の基軸通貨ではない」と牽制(けんせい)する。
 麻生首相は、「ドル基軸体制の維持に努力すべきだ」とする姿勢を示している。
 ドルの信認が揺らいで、急落すれば、世界経済や金融市場の波乱はさらに拡大しよう。少なくとも当面は、ドル基軸体制を支える必要があるだろう。

 ここなんだが今回の金融危機でドル安が日本から話題になったが、ドル対ユーロで実質ユーロがこけたに近い。ああ、ドルだなとむしろ思った。

朝日社説 太陽光発電―「得だ」感を出せないか : asahi.com(朝日新聞社):社説

 この話は複数のケースでケーススタディをしたほうがいいと思う。不可能ではないのだが、ディテールにいろいろ問題がありそうだ。簡単にいえば、ある種の利権を植え付けないかぎり地域的には成功しないだろう。

朝日社説 高齢者の犯罪―孤立させない手助けを : asahi.com(朝日新聞社):社説

 地域社会でもできることはある。
 民生委員だけでなく、住民もお年寄りが孤立しないよう目配りする。生活に困っていないか声をかけ、生活保護など福祉への橋渡しをする。NPOの力を借りる手もある。

 その現場を取材してごらん、もの凄いことがわかるから。いや、ここは端的に言っておこう。その地域社会でこうした対応をしている主体がまさに70歳近い高齢者なのだ。そしてそこが刃こぼれのような悲劇を産んでいる。もちろん、理想的なケースもある。だからそこでまた美しい物語を作られても困るのだが、全体で見れば悲惨だ。善意の人々をすり潰していくような悪魔のようなしかけにすらなっている。

 晩秋。昨晩は寝付かれず。坐禅、瞑想ともにダメ。静かな音楽を聴いているうちに眠くなった。夢は覚えていない。
 いろいろ物思いをしているのがいけないのだろうと思ったが、心が思うことは思うことなのでそれを追っていく。50歳になってみじめな自分というものがあり、そしてこれはあと生きていてもただその減衰でしかないのだろう。あと10歳、20歳若かったらなと夢想した。もちろん、その反面の心で、もうあの時代は十分というのはある。そして、今の自分のありかたは十分神の恵みではないかとも思う。ただ、もし気力があれば何をするだろう。何を学ぶだろう。それは少し思った。やはり答えは出なかった。今でも無力だが20歳のころの無力の自分を思った。未来があった。今のその未来に到達した。

また少し現成公案メモ

 こんなことに関心を持つ人がいるかわからないし、仏教や道元に関心を持つ人でも、私が何を考えているのかバカみたいに見える人もいるだろうけど、そこはご愛敬で、メモ、と。

 諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり修行あり、生あり死あり、諸仏あり衆生あり。

 「諸法の仏法なる時節」という限定節が何を意味しているかが、まず難しい、のだが、これは単に「時節」であり、「時」ということだと思う。ここで現代人が道元を誤解するのは、「時」に対する基本的な認識を異にしている部分が大きいだろう。
 道元にあっては、時とは有であり、彼は有時といっている。有るということは時である。ここで、おそらく道元がその前半生で悩んでいた問題は、たぶん、ゼノンパラドックスと同じだろうと私は思う。飛んでいる矢は止まっているということだ。もちろん、道元はゼノンパラドックスは知らないし、その思考の枠組みで考えているわけではない。
 ただ、たぶん、道元は、「飛んでいる矢」そのものの有を有時としてみたとき、それが有るということは「飛んでいる矢」であることとして理解していると思う。つまり、有るというのは名辞行為における時間の静止である。時間が静止しているわけではない、名辞が静止したかのような時の様相を示すということだ。
 だから、と、やや飛躍するが、「諸法の仏法なる時節」とは、仏法が仏教だどうのという愚論ではなく、コスモスにおける諸存在が諸存在として存在している、まさにコスモス的な名辞の秩序の理法を仏法とかりに呼んでいるだけで、そこには取り分け「仏」という意味合いはない。
 「諸法の仏法なる時節、生あり死あり」とは、生や死と名辞される存在がこのコスモスの秩序に現れているウアドクサ、根源的ドクサの状態としてまず提示されているということだ。そしてそれが存在だとされるものだ。
 ここでさらに飛躍するのだが、名辞の行為というとき、認識主体や名辞者が問われるし、私も観察者としての独我が問題になると思っていた。昨日瞑想しながらわかったのだが、ここはそうではない。諸存在の生命的な関係(広義のエコロジー)が、自であることで他と関係しあうまさにその関係のインタフェースとして広義の名辞が現れるということだ。名辞行為があるのではなく、自存在が他存在と共存して関わり生の全体性を営むとき、諸存在は自他のインタフェースを持ち、それが名辞に近いものになる。だから、流水にとって岩を転がすとき、そこに広義の名辞がある。この比喩はやや危ういかもしれない。というのは、こうした広義の名辞の行為は生命現象そのものだからだ。
 むしろ、そうした生命現象が自他の臨界を生み出して、存在をたらしめるところに仏法の「仏」の意味あいがあるのだろう。
 そして、この「諸法の仏法なる時節、生あり死あり」は次の部分に呼応する。

 たき木、はひとなる。さらにかへりてたき木となるべきにあらず。
しかるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。
しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。
前後ありといへども、前後際断せり。

 道元の不死論は、薪は灰とならないということに尽きている。生は死にならない。春は夏にならない。
 なぜか。
 それらは仏法によって名辞としてその時に存在していて、その一時の位として永遠を得ているからだ。ここは表現を間違うとかなりオカルト的になる。
 禅の本質はおそらくすべてここにある。
 一時の位の永遠を知覚することが禅そのものだからだ。人の意識は、過去とつながっており、ゆえに時間の流転を知覚するかのような錯覚を持つというか、日常の意識は、運動や変幻を含み込む。しかし、禅によって修証するとき、「一方を証するときは一方はくらし」となる。このとき、時が、前後際断する。
 ただ、ここはまだよくわからない。

身心を挙して色を見取し、身心を挙して声を聴取するに、したしく会主すれども、かがみに影をやどすがごとくにあらず、水と月のごとくにあらず。

 そしてこれ。

 人のさとりをうる、水に月のやどるがごとし。
月ぬれず、水やぶれず、ひろくおほきなるひかりにてあれど、尺寸の水にやどり、全月も弥天も、くさの露にもやどり、一滴の水にもやどる。

 ここで、聴取とさとりをうるが別のこととして理解されているのかもしれない。
 なので、このあたりの私の解にはまだ自信はない。
 文脈を戻すと。

万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。

 「万法ともにわれにあらざる」という時において、無が提示される。ここは時が有であるなら矛盾する。無である時が提示されているかだ。ただ、これはおそらく、運動を含んだ上位の時そのものに無が内包されているということだろう。
 諸生命の名辞の関係は存在を提示するがそれらが、自他を意識しない状態では無になる。ここは名辞の比喩がわかりやすい。人類が存在しなくなれば、東京タワーは存在しなくなる。東京駅も存在しない。人類の痕跡すら存在しない、なぜなら、認知しないからだ。そこに生の関係を取り結ぶものがなければ、それは有りながらにして無になる。
 字義的に難しいのは、「われにあらざる」で、ここは古来諸法無我として理解されるし、それはそれで間違いではないのでないのだが、道元が開示しているのは、諸法無我の意味であって議論が逆だ。
 ここは次の箇所に呼応している。

 人、舟にのりてゆくに、めをめぐらして岸を見れば、きしのうつるとあやまる。
 目をしたしく舟につくれば、ふねのすすむを知るがごとく、身心を乱想して万法を弁肯するには、身心自性は常住なるかとあやまる。
 もし行李をしたしくして箇裏に帰すれば、万法のわれにあらぬ道理あきらけし。

 この「万法のわれにあらぬ道理」が、「万法ともにわれにあらざる時節、生なく滅なし」ということだ。
 つまり、ここでは一義的には認識の主体、つまり独我の方法論への否定であり、インド哲学的にはアートマンの否定だ。ただ、この否定が議論上明確になっているわけではない。
 そして、私は長く勘違いしていたのだが、この独我というのは、いわゆる独我論的な独我というより、諸存在の自他意識そのものを指すのだろう。諸存在が自他意識を持ち、相互に存在を名辞によって意識する活動全体が、「きし」の常住を表している。
 ここで仏教の難所がでるのだが、そうした全一なる存在を道元は常住として見ているのか。基体というか。
 ここで道元の本義が出てくる。れいの「一切衆生悉有仏性」だ。これを「一切衆生には悉く仏性あり」と読めば道元は外道だというのだ。
 諸存在に仏性があるとするのは仏教ではないと道元は断じる。おそらくその意味での仏性はアートマンでもあるのだろう。
 道元は、こう読まないかぎり仏教はないと断じる、つまり、「一切は衆生なり、悉有は仏性なり」。もちろん、漢文としてはこう読めるわけがない。
 ここは全一が語られているとも読める。
 さらにやっかいなのは、「切衆生悉有仏性」に「如来常住無有変易」が続くことだ。
 道元的には、こう読まざるをえない。「如来は常住なり、無あり有あり変易あり」と。実は、これこそがまさに現成公案そのものだからこそ、仏性が事実上、正法眼蔵の巻頭に置かれている。
 この「如来は常住なり」の如来は、諸存在の生命活動そのものを指すだろうし、これは後の仏道の運動性そのものだろう。
 というか、時間の運動そのものが生命存在の根幹であり、それが運動=生命=コスモス=仏道という、言い方はわるいがアニミズムであるともいえるだろう。やや言い過ぎだが。
 その意味で、全一またその人間的な現れである如来は、存在するということになる。そしてそう考えればそこに実体が産まれ、一見仏教ではなくなるかのように見える。
 ただ、道元としては、運動を含む時が有であるというのは、有の前提であり、いわゆる実体論的な無限を支えるような実体は否定されているということかもしれない。ここは私もまだよくわからない。

仏道もとより豊倹より跳出せるゆえに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。

 ここはすでにもう自動的に理解できる。仏道は「豊倹より跳出」しており、ゆえに、有・無を超出した運動として現れることを言っている。ゼノンパラドックスというより、この運動の世界のありのままを捉えているだけだ。
 そして、ようやく人間と仏教と関わりになるのが。

しかもかくのごとくなりといへども、華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。

 一般に世諦と読まれるが、愛惜・棄嫌という「苦」の認識は、記憶と時間の錯誤にあることが提示される。花が散るとき、散るの運動を超えて過去に実体に咲き誇った花は無である。記憶は存在するがそれは存在ではない。
 しかし人は運動のなかにあって、仏道を習うしかない。そしてこの仏道はすべての生命的な諸存在の全一のなかにある。苦は必然に内包される。
 が、悟りはその有無の構図を自身のなかに宿すこと、前後裁断することで、苦という過去を生きることを断ち切る。苦が解放され、人が「しかあれども証仏なり、仏を証しもてゆく」というのはそのことだ。
 と、書いてみて、なるほどなとわかったことがあった。
 悟りというのは、そこが到達ではなく、ただ、人がまっき生きるという日常の所作であり、ゆえに。

 得処かならず自己の知見となりて、慮知にしられんずるとならふことなかれ。
 証究すみやかに現成すといへども、密有かならずしも見成にあらず。見成これ何必なり。

 証究すみやかに現成すは禅によって生きる人のあり方そのものであって、禅は「密有かならずしも見成にあらず」だ。仏教をいかように知ろうとも苦から免れない。知によって「見成これ何必ならんか」は否である。よって「しかあるがごとく、人もし仏道を修証するに、得一法通一法なり、遇一行修一行なり」とそれだけのことだ。ただ生きることがただ禅をすることになり、この世界には神秘も解放も存在しない。

 しかあるを、水をきはめ、そらをきはめてのち、水そらをゆかんと擬する鳥魚あらんは、水にもそらにも、みちをうべからず、ところをうべからず。

 同じ事だ。

 以鳥為命あり、以魚為命あり。
 以命為鳥なるべし、以命為魚なるべし。

 諸存在がただそのあり方として生を営む、よって「諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず」ということになる。
 ただ、そこに苦はあり、苦を滅する仏の教えがある。
 と。
 しかし、私はまったく間違っているのかもしれない。
 こうして見える道元はとても不思議な姿をしている。
 
追記
 ちょっとテクニカルな部分で追記しておこうかな。
 道元とゼノンパラドックスについては、ちょっと勇み足な部分があるので、ここはもう少し丁寧に見たほうがよいのだけど、道元がなぜ薪と灰を持ち出したかについては、龍樹「中論」がある。その意味で、道元が中論を踏まえているともいえる。
 このあたりの興味深い議論はこのあたり。考えようによっては珍書。

20081116213046
ウィトゲンシュタインから龍樹へ―私説『中論』: 黒崎 宏
 ついでに。
 これはちょっとねなんだけど⇒「ウィトゲンシュタインから道元へ―私説『正法眼蔵』: 黒崎 宏: Amazon.co.jp: 本」

ある意味で地政学的に考えるとことは簡単なんだけどね

 あまりに簡単過ぎると陰謀論みたくなる。
 ま、簡単にいうと、日本という国家は、その領域として北海道と沖縄を放棄できない。 北海道は資源的にもそうだし。
 沖縄はシーレーンでもあるし、実際に日本の海域のかなりの部分が沖縄が担っている。
 そして、これ(日本の領域というものが)がようするに、中国とロシアの蓋になっている。なんための蓋かというと、アジアと米国のね。
 つまり、冷戦のままでもある。
 領土的なナショナリズムというのは冷戦に機能するように出来ている。
 現状ではもうそうでもないんじゃないかと思うが、そういう機能はそのままある。
 で、この領土というのは、ようするに地方ということで、日本は地方を切り離して合理的に存立させることは、できないよという前提がある。
 あと、妄想論的にいうと。
 いずれ東京は壊滅する。
 意外と言われているほどには間近ではなさそうだ。
 地方分権ということで、いかにもきれいそうな絵は描けるけど、実際には、こうしたナショナル部分への負担というのは続く。
 しかたないというべきなのかよくわからないが。

ココログの投稿画面に「ブログのネタ」といううざいものが表示されて

 ああ、ニフティはあれだな、有料会員のことすっかり忘れているんだろうなと思った。
 今見たら、表示のウザさが弱くなっていたので、すこし我慢するか。
 ブログのネタがあって、ネタにぱくっとエントリを書くようにする、というご配慮なんだろうけど。
 まあ、そうやって書くなとも思わないけど。
 はてぶなんかもそうなんだけど。
 なんかなぁ、ブログの世界の流行ネタや、世間のネタにぱくぱくっていうのは、なんかなぁ。