曇天
未明に眼が覚め(まあな)、それからぼんやりと思った。こうして未覚醒の意識に漂いながら自分が今何歳なんだろうと。もちろん、歳がわからないわけではないのだが、私の意識それ自体は不定な歳をさまよっている。起きあがり、窓の外を見ると曇天。この季節特有の憂鬱な日になるかもしれないなと少し思った。憂鬱といえば、昨日増田で嫁が鬱みたいな話を見かけた。ぶくまやコメントがぺたぺたあったが、本人は洒落にならない苦悩だろうなと思った。そういう日が人生にはなんどかある。というか人にもよるのかもしれないが。そしていつか過ぎていく。私は若いころつらいことが重なって一時期離人症っぽくなったことがあった(たぶんもう書いた)。それから数年に一、二度振り返るとひどい鬱だったなということがあった。鬱というのは意識の上の鬱で終わらない、というか鬱っぽい気分のうちはまだよい。ので、そのあたりで自分への対処を考えるくらいの知恵は付いてきたが、このところ季節のせいか、奇妙な多幸感もある。私は臆病な人間なので、幸せに浸っているとあとでひどい目にあうぞ警戒警戒とけちくさい心理が働くのだが、それでも最近はまあ身体がそれでも幸せっていう感じならそれはそれで受け取っておくか、またつらい日もあるだろうし、とか思うようになった。
べたなメタ思考
このところべたなメタ思考に浸ることが多い、言い方はなんだが。以前なら、べたにメタ思考というか哲学的な世界にどーんと沈んだが、最近はあまりそうでもない。もっとなんというか、べたなメタ思考というか、メタな思考をスキーマティックに考えている。たとえば、ピュシスというのはハイデガーの考え落ちみたいにも思うことがあったのだが、先日素のnatureという言葉を考えつつ、意外とハイデガーもべたに考えただけかもしれないという気がしてきた。ゲシュテルについても、けっこう単純に納得できそうだ。風車はゲシュテルじゃないというあたりはどういうこっちゃかと思っていたのだが、昨日散策しながら、風が止まれば風車は止まると思った。搾取していない、屈している。人は、運命に対してそうであるように、屈して生きているものだった。
うまい文章?
ぶくまを見ていると定期的にというか定常的に文章術関連のものが上がってくる。が、私の見た範囲ではこれはと思うものは一個もなかったように思う。というか、どれもこれもそれはすでに聞いたよ、みたいなのが多い。
私は文章がうまくない、というか下手だ。というか、文章というのは自分の身体のようなもの、というか、心の形みたいなものあるいは内臓の形みたいなものなので、どうとなるものじゃない。ただ、いわゆる文章うまい人は人の存在としては弱い。あるいは、文章がうまい人はその人の生き身の身体が伴っていない感じがする。批判ではないつもりなのだが、最近はネットにいないみたいだが松永さんは各種の文体を駆使して見せる芸をときたまやっていた。さすがなものだなとは思うが、彼自身の息づかいの殺し方がうますぎるのではないかと思った。
あと、なんども書いたのだけど、ある種の雰囲気、詩情的というのか、あるいは偉そうなスタイルというのか、そういう気分に依存した文章は一見一読うまそうに見えるのだが、ネットで言うところのオナってやつだろう。たぶん、そういう文章を書く人は実はただの永遠に読者という人なのだ。特定の文章ばかり読んで、あるいはよいと思う筆者の文章ばかりよいと思っていることの延長でしかない。
うまい文章というのは、ビジネス的な達文というのでなければ、たぶん、生きる形の先にしかないし、結局そのこまで書き続ける人の業というものがなくてはかなわない。残念なことにその業そのものがあるスタイルに親和的というのがある。
文章のスタイルというのは文章の身体性に似ている。しかし、たぶん文章の身体性というのはまさに生き身の身体性から出てくるものなので、むしろスタイルを意識して抑制するか技巧をつぶして書いていくほうがいいのではないか。書くというのは結局身体の果てまで歩いてみせるということでしかないのだし。
そういえば昔essayのクラスで
essayというと日本では随想みたいになるが英語だとべたな小論文ってやつだった。いちど指導官と、考えることと書くことについて奇妙に話し込んだことがあった。彼が言うには、文章のコツというのは、考えを終えてから書きなさいということだった。ほぉと思った。実際のところ私にとって書くということは考えに等しいから、めっちゃくちゃになるなとは思った。
まあ、中略。考えを終える、ということは、たしかに達文の重要な秘訣ではあるのだろう。
こうして日記に書いているのは考えること以前のだべりみたいなものだが、弁解すると、薄く長くマクロ的に考え続けるっていうことかな。
あまりに奇妙な偶然というのは
何かしらその背後に人生の意味みたいなあるいは神のべたな采配のようなものがあるように感じられる。そして、そう感じられるならそれはそれで一つの人生観というか、信念というか、確信・信仰というものになっていくのだろう。
ピンチョンの「競売ナンバー49の叫び」みたいのは、ある種メタ小説なり小説の技法として読まれているのだろうし、ピンチョン自体もそういう趣向もあるのだが、あれはあれでけっこうナチュラルにこの世界の奇妙な感触そのものを描いている。
⇒「競売ナンバー49の叫び: 本: トマス ピンチョン,Thomas Pynchon,志村 正雄」
こうした偶然性みたいなものが個人で閉じているなら、ピンチョン的な両義的な世界、あるいは世界そのものの陰謀論的な幻想を誘発するだけで終わるのだが。
そういえば。
⇒極東ブログ: [書評]その夜の終りに(三枝和子)
で染代は、カオルを自分の娘ではないかと疑う。それに対して恐怖と自信のなさの、意識の混迷のようなものに捕らわれていく。妄想といえばそうなのだろう。
ああいうものがもう少し妄想でなく世界に顔を出すとき、それはなんなのだろう? というか、そういう物語、ご都合主義がけっこうあるものだが、それは反リアリズムというより、そういう強引な物語性でしか表現できない奇妙さを語っているのだろう。
他者を巻き込むようなある種の奇妙な偶然性というのは、なにかしら恋愛の感情のようなものに隣接している。もちろん、恋愛の感情の渦中にいるなら、他者から構成される世界はすべてある種の符帳を持つかのように考えられるものだろうが。
まあ、なにしら奇妙なできごとはただ単に偶然というだけというか、結果として心のありかたのゆがみというだけのことかもしれない。
それはそれで過ぎ去っていけば、不思議がことがあったなというだけのことで終わるのだろうし、人によってはそれが意味があることかもしれない。
散策して懐かしい風景を見ながら
その頃の気持ちを思いだした。
この世界に本当の何かがあるなら、それはなんだろう、と、痛いにように思っていた。あのころ、その希求だけはあった。そしてその痛いような希求が、各種の混乱した身体的な欲望と入り交じって、自分というものがわからなくなっていった。
冷静に考えてみれば、その自分がわずかであれ世界にアウトプットしているものが混乱そのものなのに、なぜ自分にその本当の何かが引き寄せられるというような感覚を持つのか。そして、今にしてみると、自分の中の抑えがたいような痛みのような、惨めな感覚があるだけだし、それは歳を取るにつれ、減衰はしていくけど、本質はあまり変わらない。
生きていると、まわりの風景のなかで、人が倒れ、死んで、消えていく。
そしておそらくなんの解決もない。
理不尽な死の宣告の前に、たぶん本当の何かみたいなもののを妥協して、そしてタイムアウトで終わる。
無常迅速。
話はずれるが。
道元は、初期の文章ほど心に響く。痛いにように響く。後期になるにつれ、道元が何を考えていたのかわからなくなる。
もっとも、道元自体、あれだけの文章を書きながら、実際のコアはごく一時期だったようだし、後期の文章も本当に後期なのかわからない。また、ごく一時期だったとして、道元は一気に語り尽くしてあとはその編集だけしていたのだろうか。
禅師は52歳で死んだ。おそらく悔いというものは無かっただろうが、どこかしら自暴自棄のようにも見えるし、その部分、道元の悲しみのようなものが感じられる。おそらく禅師はすべての悲しみを越えただろうに。
ウィキペディアを見ると、
とあり、永平寺を固めたのは46歳だったか。たぶん、気力も一番充実していた時期だろう。禅師は東国で何を思っただろうか。希玄の号の思いはなんだっただろうか。
禅師の人生を見ると病気は偶然でもあるように見えるし、そして先自暴自棄とも言ったが一種の捨身のようにも思える。
道元を知るにつれ、私にはある種、童子の道元というイメージが湧く。悲しむこともできないほど悲しい気持ちを抱いた孤独な少年。
懐奘
道元をある程度知る人なら、懐奘を知っているし、懐奘が道元より年上であることも知っているはずだ。が、「随聞記」などを見ているとそのあたりをつい失念しがちだし、そしてそのことを想起するごとに不思議なインパクトを精神にもたらす。なにより、「随聞記」とは、もしかして、この世に現れることのない書籍であったかもしれないということに、歴史というものの怖さを思う。
⇒「 正法眼蔵随聞記: 本: 水野 弥穂子」
懐奘の年齢でもう一つ大きなことは彼が道元禅師とは異なり、長命であったことだ。82歳まで生きていた。親鸞のような怪物もいるが、この時代82歳とはそれだけで大衆にしても弟子にしても仏の功徳のようなものだろうし、たぶん、懐奘は道元禅師に命を分けてもらったのだと確信していただろう。懐奘にとって道元とは本当にそのままに仏陀であっただろう。
私が、あれだけ傾倒した親鸞より、結局は、道元により心を寄せるようになったのは、道元の、なんというか拙い言い方だが、その果てしない優しさにある。禅師はとてもきびしい人だが、優しさの極地にその厳しさがある、というと拙いが。禅師にはどうしようもないほどの悲しみと孤独と怒りがあり、それが果てしない優しさになって現れるあたりに皮肉な言い方だが仏教というものを思う。ただ、そう言ってもしかたない。
水野弥穂子先生の
⇒「 『正法眼蔵随聞記』の世界: 本: 水野 弥穂子」
を読むと、懐奘が臨終の母に会いにいくべきか懊悩した推測が描かれている。それは本当のことではないかと思う。道元禅師はその問題に直接的には触れない。だが、結果として懐奘は道元の教えに従うような形で母に会うことはなかった。そのことが、たぶん、懐奘において道元への終生の感謝でもあったように思う。
人の心というか人生というのは、本質的にわからないところがあるし、そこは本質的に過ちうるという意味で自由の領域だろう。道元は懐奘の懊悩を裁かなかった。しかし、同時に具体的に一つの生き方として仏法を示したのだろう。
懐奘を思うと、道元禅師のような方に今生で会えたことへの、なんというか嫉妬のようなうらやましさも感じられないではない。ただ、それは、かなりたぶん、欺瞞というものだろうし、懐奘にそのことを問えば、否定されるであろう。
慈悲
上座部には慈悲の瞑想みたいなものがあり、それが各瞑想の基礎になっている。チベット仏教でも、なんといったか、他者の苦しみを受け取る瞑想がある。
私は瞑想そのものを否定する考えにあるが、それでも、そうした他者との慈悲の関係というのは、どこかしら心のなかで奇妙なパニックを起こす。
偽悪的に言えば、私は、世の中の人間みんな不幸になっちまいな、という心性がある。これはあるのだからあるとしか言えない。そしてダブスタに多くの人がただ不運・不幸を免れればいいのにとも思う。そういえば散策しながら、かなり多くの精神障害者を見かけた。プールで泳いでいて息をついていたら、いきなり背中をひっかかれてぎゃっと振り返ると精神障害者だった。しかたないな。どうせ背中のひっかき傷だしな、勲章勲章に見えるだろうな、あはは。
私は愛情というのはそれほど確かな人間の心情ではないと思っている。そのあたりになにかトラウマがあるのかもしれないが、そのせいか慈悲というのはわからない。むしろ、そうした善性の修行や信仰というのは、どんどん心をダブスタにしていくように思う。
神皇正統記だったか、眼明らかなれば慈悲その内にあり、という感じはする。ただ、明晰に見ていこうと思うし、そして、明晰さというのは、こうした果てしない心のゴミと無関係ではないな。
名誉とか言われることもあるが人はセルフイメージ維持のために自殺しちゃうかもしれない存在
っていうのが悲しいものだ。
セルフイメージというのは、たいていは、他者からこう見られたい自分というものだが、その維持のためには、ここで、きれいに死んでおこうみたいに。この場合は、他者というのがとても大切な心性というものだろう。
あるいは。
他者からこう見られたいなんてどうでもいいけど、自分なりのセルフイメージのために自殺しちゃう……と見えるようなことがあるけど、そのあたりはどうなんだろう。
まあ、どうなんだろ、じゃねーよだろうけど。
まあ、自我というのがそもそもセルフイメージなんだろうな。
あるいは、深く、「母親からそう見られたかった」みたいな。
でもその場合、実は、心理的には殺しているのは、その……だけど。
まあ、なんつうか。
自殺防止っていうのは、こうしたセルフイメージの整合能力である程度なんとかなるもんではないか。
⇒自殺率20%減らす、政府が対策大綱を決定 : 政治 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
未練とは自惚れとか言ったけど
実際には、自惚れが強い人は、そんなに未練の心ってないよな、と。
で、ポイントは?
自惚れをサポートできる体制だよな、と。
カネがあるとか地位があるとかコネがあるとかイケメンだとか。
嗚呼、そーゆーものがあったら、万事うまくいったのに、とか。
ホメオパシーの疑似科学性については歴史的にはちとやっかい
これを見て⇒信頼できるものと結びついた疑似科学ほどやっかいなものはない
で、homeopathyというのは、発生時において allopathyの対語であった。
⇒Allopathic medicine - Wikipedia, the free encyclopedia
Allopathy or Allopathic medicine (from Gr. allos, other, and pathos, suffering) is the name given by Samuel Hahnemann, the founder of homeopathy,[1] to the methods of his medical foes. The term is sometimes used today to refer to conventional medicine. The correct meaning and use of the term is a point of contention, even among authorities on the subject.[2]
ただ、これにはかなりややこしい歴史があるにはある。
たしか、種痘やワクチンなどは広義のホメオパシーの歴史性を引きずっているはず。
個人的には、ホメオパシー治療が劇的に効いたことがあるので、そういう体験をするとこのあたりの問題はちと困ったもんだなとは思う。
ま、概ね、疑似科学としていいのだが。
Strong Like a Willow
柳の強さという表現は東洋的な表現なのか西洋的な表現なのか。
柳の枝に雪折れなし<=>Oaks may fall when reeds stand the storm.
とかいうと、西洋ではないような気がするが。
Strong Like a Willow
という表現をよく、でもないか、英文で時折見かける。
心強くなろうとする人はいつの世でもいるけど、心というのには柳のような強さというのもあるとは思う。
ネットでも批判を受けて固くなる人が多いし、まあ、この手のことは自分が免れているわけでもないが、柳のように撓めて受け止めてもいいのではないか。
いわゆる打たれ強さというのは違って。
ま、なんかヘンテコな教訓みたいだが。
まあがんばってくれ
ババを引くやつだっているかもしれないし。
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なんとなく
ちょこちょこと休みはしたがそれでも40分くらい続けて泳いでいて、少し休んだら、一気にへなへなになって今日はそれでやめにした。2ビートから6ビートに戻したり、呼吸の向きを変えたり、交互に呼吸したり、少しずつ、いろんなことができるようになるが、まだまだ肝心のゆったりクロールがうまくいかない。
で、泳ぎ終えたら、ぼーっとした。というか、気が付くと、最近、なんか心に悩むというか鬱っぽいときは、なんだか泳いで、ぼーっ、で済ましている感じがする。そんなんでいいのかなと思うけど、他になんか心の出口もないみたいだし。一種の脳内麻薬依存症かも。
いや、人間の労働というのは本来はそんなものだったのだろうな。違うか。よくわかんないや。
⇒「 DEEP RIVER: 音楽: 宇多田ヒカル」
FINAL DISTANCE
気になるのに聞けない
泳ぎ疲れて君まで無口になる
会いたいのに見えない波に押されて
また少し遠くなる